オートバイとわたし私とオートバイとの出会いは21歳くらいのとき。 大学の1つ上の男の子の 後ろに乗せてもらったのがきっかけ たしかCBX250だったと思う。 ぶかぶかのヘルメット 必死にしがみついて 翌日全身が筋肉痛になったっけ で、いろいろあって その子とおつきあいするようになり バイク便ライダーだった彼の 後ろにいつものっけてもらって 遠出するように。 彼のバイクはGSX400とFZRだったと記憶。 どちらもタンデムには 全然向かないバイクだったけど 楽しかったなあ でもその子はバイクと同じくらい 女の子に乗るのも好きで(爆) 1年で破局 そのときにはもう すっかりオートバイの魅力に 取りつかれてたわたしは 彼と別れたショックよりも 「どうしよう、もうバイクに乗れない」 こっちのショックのほうが 大きかった・笑 それから一念発起して 2輪の免許を自分でとりに 教習所へ。 受付が終わり 「はい、それでは1階へどうぞ」 そこには横たわる 教習車(VFR400K)が.... そうです。事前審査があったんです バイクの引き起こし。 これができないとそもそも 2輪の教習をうけることはできません。 乾燥重量200kgくらい? でもこの日、申し込むだけだからと ミニスカートにパンプス姿のわたし まったく引き起こせず 仕方なく小型(125cc)教習から スタートです。 で、なんとか免許とって 最初に購入したのが NX125というバイク。 それからお付き合いするようになったのが 私のモト夫。 彼もバイクに乗ってました。 真っ赤なZXR400 都会に暮らしてたので 駐車場代や維持費もかかる車より オートバイのほうが便利。 だもんで、必然的に ふたりいつもオートバイで旅をするように。 ただあまりにも性能に差があったのと 私の125ccでは高速に乗れない... そして運命の1995年の 大阪モーターショー そこで私はYAMAHAブースに 展示してあった SEROW225Wに出会います。 ひとめぼれ そこからまた、一念発起して 小型→中型免許をとります。 ええ、このころには ちゃんと重たい VFR400Kも引き起こせるように。 はれて憧れの SER0W225を新車で購入 それから結婚。新婚旅行は ZXRとSEROWで 九州を一周しました。なつかしー。 チビすけの私には 足は片方のつま先がやっとでしたが 軽くて素直で乗りやすい SEROWとは何千キロも一緒に 旅をしました。 一番愛着ある相棒です。 でも、高速道路で 走行中、突然逝ってしまい.... それから買ったのは バイク屋さんでひとめぼれした SRX400 はじめての車検のあるバイク。 当時、この世で一美しいと 私が思っていたオートバイ SRX600の弟分です。 立体音叉が美しい モト夫の仕事が忙しく 家に全然いない日も 仕事がとってもつらい日も SRXと一緒なら 何もかもふっきれた。 SRXにどれだけ慰められてたか。 そして2003年。 思いがけなく妊娠。 当時でも希少車だった SRXを泣く泣く手放すことに。 オートバイは火を入れてナンボです。 飾るものではないのです。 大事に乗ってくださる方に お譲りするほうが、 きっとバイクにとっては幸せ。 最後にエンジンキーを 切った瞬間は今でも忘れない。 出産後は仕事もやめ 毎日ひとりで育児に忙しい日々。 収入も半分以下になり 家事と育児にまったく心の休まる暇もなく 判明した子の食物アレルギー 何を食べても体をかきむしる子、 親の私にも授乳中は厳しい食事制限.. そんななか、モト夫は 仕事や飲み会で毎晩遅く 帰宅したら即、自室でゲーム。 休日には仲間とバイクでおでかけ。 公園で子どもを遊ばせてるときに 知らないバイクのエンジン音が どれだけ当時、つらかったか。 そんななか 私にモト夫が言い放った言葉が 「オンナはバイクを降りたら もう二度とのれないらしいよ」 だったのです。 あれだけ一緒に走ってたのに ですよ? さーっと血の気が引きました。 今でもこの言葉だけは 絶対に許せません。 そして数年後にR婚 私は当時3歳になったばかりの 子を連れて実家に戻ります。 毎日が生活に精いっぱい。 田舎は車がないと生活できないし オートバイなんて夢のまた夢。 でも10年後 私はとある方と出会い、 その方のおかげで14年ぶりに またオートバイに乗ることが できました。 借りものでしたが 乗れたことがとてもうれしくてうれしくて ガレージで声を上げて号泣してしまいました。 そしてさらにその2年後 ついに私は、自分のバイクをまた 手にいれました。 YAMAHA YZF-R25 悩みましたが 体力的にも 金銭的にも これが最後のチャンスだと思って。 はじめまして。 これからよろしくね。 そして また会えたね。 立体音叉 ジャンル別一覧
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