郷土刀工の系譜 其の参【備後福山住中平暁邦(あきくに)】
先頃、在る刀剣店から【備後福山住中平暁邦(あきくに) 慶応三年二月】在銘の刀を入手した。もう刀を増やすのは辞めようと思っていたのですが、橋本邦光と同様に郷土刀で有ることと、郷土刀であっても中々出会える事のない刀でもあり、私が所有していない刀でしたから、購入する事にしました。【以下余談ですが、20年ほど前、関西の刀剣店に【千秋万歳 於東都龍泉子暁邦】在銘の刀が売品として出ていました。郷土の暁邦の刀かと思い、購入するか迷って結局見送った事がありました。当時は偽銘とも判断が出来ませんでしたが、此の暁邦の銘振りと比較すると、全くの偽銘だったなぁと述懐しています。当時は暁邦の名前は知っていましたが、実刀を見たことも無く銘振りも解っていませんでした。大振りな切銘で偽銘とも思えませんでしたが、軍刀寸法で茎の錆色に違和感を感じたことも思い出します。そんなこんなで、大阪まで出向いたのですが、結局買わずに帰宅しました。茎を子細に確認したところ、削ったような痕跡が見受けられたことが決め手でしたね。暁邦の様な超マイナーな刀工の偽銘を切るなど、当時は考えてもいませんでしたが、欲しがっている人が居たのかも知れませんね。其の人に押し込もうとして偽銘を切ったのかも等と考えています。】暁邦の在銘は初見ですので、此の銘が正真銘であるかどうかの断言は躊躇するのですが、焼刃の出来が小乱れで整わず、如何にも田舎臭い出来映えなので、かえって正真作であろうと私は思っています。茎の鑢と銘の運筆に、よどみや躊躇が無い事も其れを補強しています。勿論、日刀保の保存鑑定書等は付属していません。地方刀工の希少作は、過去に類例が無いため判断が難しく、中々証書も発行されにくいとも聞いたことがあります。先年、此のブログに記載した龍泉子驍邦の妹婿であると伝わっている。当地に於いても、驍邦、暁邦は、よく混同され、一人鍛冶の様に思われていました。日本刀名鑑を紐解いても、龍泉子驍邦(たけくに)は【あきくに】と表示され、勿論此の暁邦は掲載されていません。名鑑漏れの刀工と云う位置付けになります。】新々刀期の、比較的近世の郷土刀工であっても、知る人は少なく、まして実刀を鑑賞研究する事などは、殆ど考えられていなかったわけです。私も此の暁邦の実刀を観るのは初めてでした。龍泉子驍邦に比べて、暁邦の刀は極端に少なく、地元で在っても目にすることは少ないのです。何処の刀剣愛好家も、著名刀工に目を向け、位列下位の郷土刀工などは長年置き去りにされてきました。私も、刀剣愛好者の一人として、常々郷土刀工の刀を所持、鑑賞したいと思っていました。今では、何振りかの郷土刀工の刀を所蔵する事が出来、それぞれの作風を楽しんで鑑賞しています。先年記載した龍泉子驍邦が【備後福山住中平驍邦(たけくに)】とも銘を切ります。此の暁邦も【備後福山住中平暁邦(あきくに)】と銘を切り、同じ中平性であることから、極めて近しい関係であることが推認出来る。聞くところによると、暁邦は俗名中平長兵エと称し、龍泉子驍邦の妹婿であると伝わっているようだが、同時代同性を名乗ることから、さも有りなんと思わせるのである。慶応年間、義兄の龍泉子驍邦と共に、備後福山藩の招きに応じ、一門を引き連れ、福山城下に於いて鎚を取り,鍛刀に励んだと伝えている。此の暁邦は直刃が多いそうですが、此の刀は乱れ刃です。出来口は、地鉄、板目肌流れて柾がかり、新々刀特有の無地風の肌とは異なる。刃紋、匂い本位に小沸つき、直調に小乱れ、互の目乱れ交え、小足整然と入れ、田舎臭い出来ながら、匂い口明るく元先まで破綻無く焼き入れている。帽子尋常に小丸に返る。表銘【備後福山住中平暁邦作】 裏銘【慶応3年2月】刃長 2尺4寸強【72.9㎝】 反り 6分9厘強【2.1㎝】元幅 32.1㎜ 先幅 22.5㎜ 元重ね【鎬厚7.1㎜ 棟厚5.9㎜】 先重ね【鎬厚5.1㎜ 棟厚3.6㎜】棟を卸した実戦用の造り込みであります。茎仕立ては、筋違い鑢に横鑢の化粧付き 栗尻。刃区クッキリと、余り研ぎは掛かっていない。明るさを調整しました。暁邦銘拡大地鉄の拡大写真です。少しボケましたが柾目に流れた肌が良く見て取れます。是れで、所蔵の二字銘驍邦と此の暁邦、龍泉子驍邦弟子の橋本邦光と、龍泉子驍邦一門の刀が揃いました。【おいおい、今までどうしていたんだぃ】刀同士の話し声が聞えるようです。驍邦、暁邦、両人の、鍛刀に於ける師伝は明らかでは有りませんが、近隣の鳥取には浜部一門があり、山を越えれば、備中には水田国重の流れもある。しかし、龍泉子驍邦の茎仕立ては、何れの一派とも異なる。【但し、暁邦の場合、義兄の驍邦と異なり、茎の仕立ても尋常である。】両人共に邦の字を使用していることから、安政年間に死去した、竹中邦彦との関係も想起出来るが、刀の出来口や茎仕立てが全く異なり、道統を継ぐ流れとは認めがたい。初期の鍛刀地は、現在の神石高原町豊松地区で、近隣の刀工に手解きぐらいは受けたのかも知れぬが、自学自習で鍛刀技術を習得したのではないかとも考えています。龍泉子驍邦銘での初期作は殆どが直刃であり、出来口だけをもって師伝を辿るのは難しい。何はともあれ、龍泉子驍邦、暁邦、邦光と、同門の刀が150年の時を超えて、一同に会した事は、私としても喜びを禁じ得ない気持ちです。郷土刀工の系譜 其の一 【龍泉子驍邦】郷土刀工の系譜 其の弐【【橋本邦光】郷土刀工の系譜については、上記をクリックして御覧ください。最後になりますが、此の暁邦や驍邦など、知名度の低い地方刀工の刀は、其の郷土に有ってこそ光り輝くのであります。誰にも故郷があるように、自らの郷土の刀は、郷土に住む我々が、護り伝えて行くのが責務ではないかと思っています。後日、龍泉子驍邦、暁邦、邦光の師弟、兄弟の刀を並べて、其の出来口等を比較鑑賞したいと考えてもいます。