|
カテゴリ:スピリチュアル
ある本によれば、「愛」の反対は「不安」だという。 この世の中は相対性の世界であり、全てのものに両極が存在する。そして、感情においても、「愛」と「不安」というのがその両極だ、という。 初めこのことはよくわからなかった。 感情、といえば、普通、喜怒哀楽すべてをさすし、それらの感情が、この「愛」と「不安」の二つに帰着できるものなのかどうか・・・・ しかし、不安が確かに「穏やかさ」「平安」を壊すものであることは確かだろう。「愛」が穏やかさや平安をもたらすものだとすれば、不安は、その意味で「愛」の対極ではある。 不安というものは何か、を考えると、それは未来の「不確定さ」、あるいは未知であることそのものに起因するといえるだろう。 子供がいつも帰ってくる時間になっても帰ってこない、なにかあったんではないだろうか? 今、会社は景気が悪い。そのうち、自分が首になるのではないか? このところ、ちょっと体の一部に痛みが走る。もしかしたら、これは何かの病気なのではないか? つまり、 何かわからないもの、どうなるかわからないもの、そういったものが、本当は何なのか、最後にはどうなるのか、が分からないことで「不安」になる。 だから、子供から電話があって、今友達の家にいる、と確認できれば、不安はなくなり、会社の上司と話していたら、今度社内の配置転換があり、自分がある部署の責任者となって、その部門の再建を命じられることがわかると、首になる不安は遠のき、体の一部の痛みは、実はXXだった、と原因がはっきりしたら、それで不安は解消されたりする。 つまり、「未知」だったもの、「不確定」だったものが、「既知」になったり「確定」することにより、こういった不安は一掃される。 人間は、不安になったり、心配したりしても、ものごとがよくなるわけではないことを知っている。 知ってはいても、心配せずにはいられない、不安になるのを避けられない、それが人間というものでしょう。 でも、その「結果」がわかればそんな心配や不安はなくなる。 しかし、中には、人間にとってはいつまでの「既知」にはなりえないものもある。 たとえば「死」だ。 自分は死ぬんではないか、あるいは殺されるのではないか、という不安があったとする。それが高じると恐れや恐怖になる。 そういったものを既知にしたり、確定することはできない。いや、確定することが恐ろしいわけだ。 しかし、考えてみると、「死」が恐ろしいのは「死」というものがなにかわからない、死んだらどうなるのか、がわからない、という、これもまた「未知」への恐怖でもある。 そんな心配や恐れ、恐怖を克服できるもの。それは「信念」以外にない。 なぜならば、それを体験的に「既知」とすることは出来ないし、「確定」することはなおさら出来ないからだ。 それが起きることは絶対確実であって、その後どうなるかわからない、という不安や恐怖はいつまでも付いて回る。 それを断ち切るのは、「信念」しかない。 その意味では、生きる上での全ての「不安」や「恐怖」を取り去るすべも、この「信念」かもしれない。 自分が失敗するかもしれない、という不安も、絶対成功するという「信念」があれば不安を克服できる。 自分は今の苦境を抜け出せるのだろうか?という不安も、人間に克服できない試練はない、と心底思えれば、それに立ち向かう勇気が出てくる。 自分が死ぬかもしれない、という不安や恐怖も、自分は魂としての永遠の生命を持っている、という信念があれば、これを穏やかに迎えられる。 この後者においてこそ、信仰の、信仰たる恵みがあるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.09.20 04:10:35
コメント(0) | コメントを書く
[スピリチュアル] カテゴリの最新記事
|
|