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カテゴリ:スピリチュアル
昨日は久しぶりに教会へ。いつものことだが、考えさせられることがてんこ盛り。 それが私が教会へ行く主な理由の一つだから、それはそれでいいのだが・・。 帰りがけ、いくつかのことについて考えながら車を運転していた。 人間の、個人としての幸福と、全体としての幸福について。 あるいは、人間の大きさと、個人の幸福について・・・・ たとえばこうだ。 人間が幸せであろうとする。これは出来る。心の持ち方次第だからだ。 ところが周囲の現実に目を向けると、不幸な人はたくさんいる。困っている人、悲しんでいる人、悩んでいる人、こういった人たちが居る、という現実の中で、自分は幸せ、と言えるのかどうか。いや、幸せで居られるのか。 そこには、個人としての幸せを、どうとらえるか、が関係してくる。ある人は、自分の幸せやもしかしたら命さへも、周囲の現実の改善と引き換えても良い、とする。 人間の大きさ、「自分」というものの範囲をどこまで拡大しているか、による。 本当の意味で、全ては一つ、ということを理解していたら、多分そうなるだろう、と。 もう一つは、教会でもそうだが、「神」に祈る、ということはどういうことか・・。 いったい、人間には「神」をイメージすることは不可能だろう。もし居たとして(あるいは「在る」として)「神」の本質、「神」の実態は、人間の想像力を超えているだろう。 その「イメージを超えた」存在に対して、はたして「祈る」ということができるのだろうか? だからこそ、古来、人間は、「何か」を神の象徴、あるいは代替物としてあがめる風習が世界中にあった。しかし、例えばキリスト教やユダヤ教、あるいはイスラム教など、旧ユダヤ教の聖書(キリスト教でいうところの旧約聖書)に根を発する宗教は、かのモーゼの10戒にある偶像をあがめてはいけない、という戒律のもと、そういった象徴や代替物を否定している。 しかし、イメージできないものを「神」として崇める、あるいは敬う、愛する、なんでもいいが、そんなことがいったい可能なのだろうか?可能ではないからこそ、こういった偶像が存在するのではないか・・・・とか。 こんなことを考えて車を運転していて、信号で止まっていたら後ろから追突された。 これが現実。 思惟と現実。 心と現象。 そこに「魂」の入り込む余地はあるのか、というのが、事故のあとの研修のテーマでもあった。 未だに「魂」の入り込む必然性が見つかっていないのだが・・・。 「魂の冒険」 高橋佳子著 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.15 08:51:20
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