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カテゴリ:スピリチュアル
日曜日はいつも教会へ行く。 午前中に礼拝があるが、その前に「聖書勉強会」というのがある。 なにか、日本の本部の方から進度が提示されていて、すべての系列の教会が同じ進度で勉強を進めているらしい。 先日から旧約聖書の「列王記」というところを読んでいるのだが、どうもよくわからない。 特に旧約聖書は時代背景とかがわからないと、一見ちんぷんかんぷんである。 まあ、内容はさておいて、ふとあることに気づいた。 それは「聖書」というのは、キリスト教がいかに正しい神を信じる宗教か、ということをこれでもか、と書いてある書物だ、ということ。 これは考えてみれば当たり前の話である。ある宗教の「聖書」が、その宗教について否定的なことをかいてあるなんてことはまずない。 しかし、「この宗教は正しい信仰ですよ」という説明の仕方はいくらでもある。 キリスト教の聖書、特に旧約聖書は、言ってみれば、他の邪悪な宗教、あるいは「偶像崇拝をする宗教」に対して、「正しい主」を信じることがいかに大切であるかを書いているのだが、その過程で、他の「邪悪な」宗教、「間違った」宗教がどんどん滅ぼされたり、神の罰に当たったりする話のオンパレードである。 しかし、神を信じてなにかよいことが起こった場合には「信仰の勝利」であり、なにか悪いことがあった場合は「信仰が足りない」か、あるいは「神には人知を超えたご計画がある」とする。 そうすると、どんな宗教でも、同じことがいえるのではないか、と思えてしまう。 いつものことだが、独善排他の宗教に、果たして、人類を救済できる可能性があるか、このこと自体への疑問は深まるばかりだ。 個人が宗教、あるいは信仰によって救われることがあるのは、その実績からして明らかであり、これは否定できない。なぜならば、救われる、というのは本人の意識であり、そう感じる人が実際に居るからである。 しかし、それと、「人類の救済」とは、またぜんぜん違う次元の話だ。 究極的に、全人類を救済する宗教があるとしたら、それは、絶対に排他・独善ではありえない、と思うのだが、どうだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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