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カテゴリ:スピリチュアル
ある往復書簡、しつこく続いています(笑) 途中で、相手の人が、私を「パウロ・リンロン」なんて呼び始めたので、今回は、洗礼とこの呼び方に対しての返事です。 なにせ、相手の方のメッセージが書けないので、話が飛んでいるかもしれませんが、ご容赦を。 また、メッセージ中、どうしても割愛しなければならないところは割愛していますので、その点でもご了承ください。 ・・・・・・・・・・・・ 祈りの力に関しては、いろいろな逸話がありますよね。もっと現実的なものとしてはTM瞑想の上級者が集まって瞑想した時に、その場所の上空が明るく輝いてきた、というのもありました。また、アメリカのある都市での実験で、この瞑想グループがその市に滞在し瞑想していた期間は、その都市の犯罪発生率が極端に低下したそうです。でも、その催しが終わって皆が去ったら元に戻ったとか・・・(笑) 喜びの「一時的な喜び」「永続する喜び」という話は私にも新鮮でした。やっぱり〇〇さんも聞いたことがなかったですか? ともあれ、キリスト教、あるいは「聖書」の中で、「喜び」は「祈り」「感謝」と並んで三大善行(こんな呼び方はありませんが)の一つですね。 ある全然別の本にも同じようなことが書いてありました。神は人間が喜ぶことを喜ぶ、なぜならば人間は神の一部であり、人間が喜ぶことそのものが「神」が喜ぶことに他ならないから・・・とありました。 カトリックの洗礼を受けるのに、そんな事前教育があるのですか!初めて聞きました。こちらのバプティスト教会では、詳しくは知りませんが、 「イエスが神の一人子であること、そのイエスが私たちの罪のために十字架にかかり死に、そして人類を救うために蘇られた」ということを信じます、という内容を含めた「証し」を皆の前で読み上げ、それを聞いた「そこの教会員」の賛同が得られれば、もう洗礼を受けられるようです。 私も、いろいろな方に、リンロンさんはまだですか?としょっちゅう聞かれて困っています。いつも「それはあり得ません」と答えているのですが・・・(笑) 実際、まじめな話、ずっとこのまま教会へ行き続けたとしても、私が洗礼を受けてクリスチャンになることは、キリスト教の(カトリックであろうと、プロテスタントであろうと)教理が、革命的に変わらない限りあり得ないでしょう。 そして、その「革命的に変わる」こともあり得ないことを私は知っています。 なぜならそれはキリスト教の根幹部分に関わるので、それが変わったら、もはや「キリスト教」と呼べなくなってしまうからです。 私が信じていないのは、例えば「イエス・キリストは神のひとり子」「三位一体」「神の裁き」「罪と罰」など、キリスト教徒なら、到底否定できないだろう内容ばかりです。 (細かく言うと、もっともっと沢山ありますが、今この場ですぐに出てきたものだけです) 例えば「罪」。よく「私たちの罪のためにイエスは死なれた」とかいいますよね。ところが私は人間の罪ということに関して、聖書で書かれているようには考えていません。極論すれば、人間のやることに「神に対する罪」なんてない、と思っています。 「罪」というのは、もともとの意味は「的を外す」という意味だったことはご存知ですよね。 そうです、的を外すことが「罪」なんです。 じゃあ、その「的」って何?といわれたら、私は「神に向かって、あるいは一にして『全』なるものに向かって進化すること」という定義を与えています。つまり、神に向かって歩いていればいいのですが、人間、まま「的を外して」あらぬ方向に歩いていったり、戻ったり、ぐるぐる同じ場所を回ったり、遠回りをしたり、なかなか一直線には歩けません。しいて言えば、それが「罪」の内容です。 ですので、それを見て、「神が怒」ったり、「罰し」たり、「地獄へ送」ったりすると思いますか? 迷っている子供に対して、人間の親でもそんなことはしませんよね。子供が迷っていたら、心配し、祈り、勇気付け、導き、教え、時には諭し。。。それが親であり、神が人間の親以上には愛がない、なんて訳有りませんから。 洗礼の話に戻ると、そちらの神父さんが言われた 「洗礼を受けたからといって、わたしたちの目では確かにこれといって変わるわけではない。でも洗礼は神からいただくいいものにちがいないのだから、Why not? 受けてみたら?」 の言葉は、全然あてはまりません。 なぜなら、信じてもいないことを「信じる」と嘘をついて洗礼を受けることでまず罪悪感が生じます。そして、洗礼を受けた、ということは周りの人が知るところとなるので、その偽善をつくろうべく、毎日嘘の態度を取り続ける苦痛が生じます。だって、洗礼を受けたあとに「イエスが神のひとり子だって?そんなの嘘に決まっている」とか「イエスが蘇ったのは、我々人類を罪から救い出すためだ、なんてこじつけだ」なんて言えなくなっちゃいますよね。(笑) それに「洗礼は神からいただく」ものだ、なんて私は思っていません。あれは人間が作り出したものです。だから、幼児洗礼は是か非か、なんて議論になり、その考え方の違いで宗派が分かれたりするんです。もし神が作られたんだったら、なんで「一つの決まった洗礼」になっていないのですか?と聞きたいぐらいです。 そう言うと、どの派の人も、「あちらの派の考え方が間違っている」と言うか、または「その考え方は、それぞれ違うかもしれないが、洗礼が聖書にこれだけ明白に書かれているのだから、その細かな手順や受ける条件はさて置いても、洗礼そのものはやっぱり大切」とか言うのではないか、と思いますが、それでも、上の論理は有効ですよね。 ・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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