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カテゴリ:スピリチュアル
さて、夕食を食べ終わり、多少満腹気味で、頭の回転も鈍っていると思いますが、今日、三つ目の日記に行きたいと思います。(あ、夕食のせいではなく、その前の一杯のせいかな?) タイトルは「神のメッセージ」。 日ごろ、いろいろなスピリチュアル系の本を読んでいる中で、ひとつ疑問がありました。 それは、「神からのメッセージ」とか「守護霊からのメッセージ」というものがたびたび出てくるのですが、その中で、そのようなメッセージの在り方がいくつかある、ということです。 その一つは、言葉によるメッセージ。例えば「声として聞こえる」「自動書記で、ペンが勝手に動いてメッセージを書く」そして多いのが「霊媒」を通して、その霊媒の人の声を使ってメッセージを伝える、というもの。 これらを「声」あるいは「言葉」によるメッセージとすると、二つ目はインスピレーション。 これは、たとえば、ある風景を観て、ある音楽を聞いて、あるいは風のささやき、鼻の美しさ、あるいはある映画を観て、ある本を読んで、といろいろありますが、とにかく、何かのきっかけで自分の心の中に「ひらめき」とか「インスピレーション」が生まれて、それで、「ああ、そうだったのか!」と突然の理解が訪れるもの。 そして、三番目には、人間体験の中で徐徐に現れる「理解」。体験・経験、自分の行動や言動、そして他者からの反応や他者との交流を通じて、自分の中でだんだんと醸成される「真理」の理解。 こういったいくつかの方法というか、経路を通して、この「神のメッセージ」が個々の人に届けられているらしい、ということが、いろいろな本に書かれています。 だからと言って、そのメッセージをメッセージとして受け取るかどうかは、その人次第。メッセージの受信側が準備が出来ていなかったり、受信したとしても気づかなかったり、それがきちんとその人に伝わるかどうかは保証されていません。 こういった話を聞くたびに、あるいは読むたびに、私は、なぜそんな気が付かないような可能性のある方法や、間違いやすい方法などを使うのだろう? なぜ「言葉」や「現象」で、疑い得ない方法で、誰もが納得するような形でメッセージを伝えないのだろう?と思ったものでした。 で、結局、今現在言えることは、これらの方法は、皆一長一短だ、ということ。 ちなみに、上記の三つの方法の長所・短所を挙げてみると、 1.言葉によるメッセージ 長所 :必ず受け取ってくれる。 それをその人の幻聴のせいにしたり、白昼夢のせいにしたり、はたまた精神病のため、という解釈をされることはあるにしても、その言葉そのものはメッセージとして確実に届く。 短所 :その言葉の制約を全面的に受ける。 その人が知らない単語・語彙は使えないし、ビジュアルな情報は全く伝えられないし、それ以上に精妙な「コンセプト」のようなものは言葉に出来ない部分に大きな比重がある場合が多い。 それらがまったく伝えられない。 2.インスピレーションによるメッセージ 長所 :このインスピレーションによるメッセージは、1の言葉によるメッセージでは伝えられない精妙な部分、ニュアンスだけではなく、内容的に言葉にはできない「感覚」あるいは「感情」というものを含めて伝達が可能。 短所 :人はなんらかのインスピレーションを受けたとしても、それに気づかないことが多いか、気づいたとしても、あまり重要だとも思わずにやり過ごしてしまうことが多い。ふと感じた事がどれだけ真実に近いか、ということを深く考えもせずに、そのまま忘れ去ってしまう結果になることが多い。 3.体験・経験を通してのメッセージ 長所 :この人間経験を通してのメッセージは、その経験が真摯なものであればあるほど、そのメッセージの本質に関する真の理解が得られる。 言葉の制約を受ける事もなく、インスピレーションを無視するような危険性も少なく、自分の価値体系・信念体系に確実に組み入れられる。 短所 :同じ経験をしても、そこからメッセージを受け取らず、返って、悩みや苦しみ、悲しみなどの現世的な試練としてしか受け取らず、その意味を追求することなく、単なる負の経験で終わってしまうことが多い。 ざくっと思いつくままに挙げてみたが、ほぼ共通して言われる事は、神のメッセージを声で聴くのは、どちらかというと一番内容が誤って伝わりやすい、ということ。 聖書の預言者が神の言葉を聴いて、それを他の人に伝えた、とされるが、その人たちの受けたメッセージがこれらのどの形において成されたかはしらない。 しかし、もしそれが「言葉」によるものだとしたら、そのメッセージの内容は、かなり慎重に吟味しなくてはならない、ということだ。 また「聖書」に書かれているイエスの言葉とされるもの。これらは、もうどう言おうと、それは「人間」イエスの言葉だ。 この言葉の意味を、話をしたイエス自身の思いが、真意がどれだけ正確に伝わって今現在の聖書になっているのか、という点でも同じように「慎重」な態度が必須になってくると思われる。 反対に、この最後の3番目にある「人間体験」からのメッセージの受信。 これが最も確実で、最も信頼できるものになる「可能性」を秘めている。 しかし、残念ながら、私たちは、ここに挙げた「短所」にそのまま合致するような態度で、すべての出来事に対していないだろうか。 結局、超常現象や奇跡などの「しるし」がないとなかなか「神のメッセージ」とは確信できないものの、一方では体験という名の、いうなればメッセージの宝庫を日々私たちは経験しているが、そこからどれだけこの大切なメッセージを受け取ることが出来ているのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.03 10:19:53
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