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カテゴリ:恋愛小説
休日に祖母と一日顔を合わせていても話すことはあまりなかったから、私は家を出て ふらふらと街中を歩いて休日のあり余る時間をつぶしていた。横浜には有名な古い 建造物があり、休日には観光客で溢れかえる。けれど私が好きだったのは、誰も寄り 付かないような場所で、観光案内の雑誌にも載っていないような無名の古い建物 だった。青い空に向かって尖った屋根の上の十字架を突き立てるように伸ばす木造の 教会では中の様子を伺って、教会での生活を夢想したり、今はもう使う人がほとんど いない年代ものの公衆電話がある公園では、茂った木々がちらちらと光の模様を 躍らせているのを眺めては時間をつぶした。何故だか私は人よりも言葉をもたない建物 とか会話を交わすことのできない自然の木々を好み、時の流れが止まったような場所に 居心地のよさを感じることが多かった。私が「ドルチェ」を見つけたのも、高校生になって 間もない梅雨の晴れ間の午後だった。
レンガで装飾された壁に、はげかけた金の文字で「Dolce」と書かれた看板が掲げ られていた。風を入れるためだったのだろう。開店前の店は、オイルステンで仕上げ られた無骨な木製の扉が開け放たれていた。中を覗くと、カウンターと小さなテーブルが いくつか並ぶスタンドバーの様子が見えた。薄暗い店内のカウンターにはビアサーバー とビンが逆さにセットされていているのも見える。後ろの壁いっぱいに、名前も知らぬ酒 の瓶が並んでいて、それらはどれもこの店の雰囲気になじみ、まるで何年もの間、 居心地のいいその場所で静かに時を刻んでいるようだった。タバコの煙にいぶされた 壁も、カウンターも、アンティーク風の椅子も、すべてがこの店で一緒に歴史の一部に なるために、ここから離れたくないと願っている。私にはそんな風に感じられて、ひどく 興奮して、吸い込まれるように薄暗い店内に足を踏み入れた。
その時、店の奥から低い声がした。 「なに。なんか用?」 暗くて私には見えなかったが、店の奥にはずっと彼はいたようで、たぶん、店の様子を 伺う私のことを見ていたようだった。 「いえ、あの、すごく素敵な店だなって思って。こんな店にずっといられたら幸せだろう なって」 「いられたら、って・・・。まだ、開店前だから、七時になったらもう一度いらっしゃいよ」 「でも、わたし、お酒飲めないから」 「いくつ?」 「十八」 「じゅうはち、ねぇ。中学生くらいに見えるけどねぇ」 「ですよね・・・。私、ここで働けませんか」 「うち、いま募集してないだけど」 「いまなら、格安で働かせていただきますけど」 「・・・面白いね。履歴書持ってるの」 「いえ」 「それじゃ、今度履歴書もっておいで」 そう言って、ひげ面の男は私に「前島壮大」と書かれた一枚の名刺を手渡した。
つづく
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