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板さん5904

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2011年11月22日
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カテゴリ:会津の歴史

■日本の名城 ジョイジョイコレクション 1/460 鶴ヶ城(童友社)□
 会津藩士「神戸民治」は、慶応4年(1868)9月17日、一の堰の戦い(現:会津若松市門田町大字一の堰地内)で青龍士中組三番隊半隊頭として、長府軍との激戦の末戦死する。

この「神戸民治」については、「神戸岩蔵附其兄民治が事 岩澤源四郎談 一壽老筆記」に詳しく記されている。

今回取り上げるのは、この民治の実弟で後に長府にて会津藩の間者(スパイ)となる「神戸岩蔵」についてであるが、どうも兄の民治のことを説明しないと、岩蔵がどうしてスパイになったかという経緯が見えてこないのである。

 岩蔵は、会津藩士「神戸内蔵(禄高 百八十石)」の次男として会津に生まれた。幼少の折、父内岩が江戸詰であったため、物心つく頃まで江戸で暮らしていた。
このことが、会津弁を語ることなく、流ちょうな江戸弁に染まっていくこととなり、後にスパイとして採用される条件の一つとなった。

 さて、岩蔵が父と共に会津に戻った後、兄の民治が刃傷事件に関わることとなる。

慶応四年の8月、梶原平馬が鶴ヶ城内軍義の中で「藩主容保を米沢藩に逃し、残る婦女子等を斬首する」意見が出された折、皆を説き伏せ、籠城戦に突入することを決せさせた人物が、後の家老「原田対馬種龍」である。

この原田対馬であるが、幼少の頃より美男子であったため、同僚であった「神戸民治」「高木豊三郎」「多賀谷弥七」の三人が彼を寵愛していたとのこと。

ある日、この三人が対馬の取り合い?となりもめ事をおこし、遂には刃傷沙汰となってしまい、「多賀谷弥七」は「高木豊三郎」に切られ死亡。
この事件は藩によって審議されその結果、「高木豊三郎」は切腹、「神戸民治」は永代揚屋(無期懲役?)=謹慎?となる。

この刃傷事件をきっかけに、弟の「岩蔵」は兄に代わって主君容保のために、役に立つことを願いでることとなるのである。  -続く-






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最終更新日  2018年02月13日 14時24分00秒
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