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テーマ:政治について(20201)
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政治と宗教には密接なつながりがあります。
しかし、これは至極当然のことだと思っています。 一般的に宗教は各々の道徳観念をもっています。そして、実生活の中でそれを使っていくことが求められています。 たとえば、同性愛に反対する宗教があるとしましょう。実際こういった宗教は多いので、分かりやすい例になると思います。 同性愛に反対するのは、伝統的な男女間の結婚においてのみ、幸せな家庭が築けると信じているからとします。 また、その宗教では自分の信じていることは正しく、そしてその真実を他のひとにも伝えていくことが義務だとします。 すすと、社会的にも自分達の真実をしってもらいたい、または、したがってもらいたいと思うようになります。 そのために、政治に参加するのです。立法に携わり、正しいことを法制化することにより、さらに多くの人に幸福になってもらいたいと思うからです。 このように書くと、政教分離がどうたらこうたら、とか、何を持って正しいと決め付けられるのか、とか、他人に信心を強制するなとか、そういうことを考える方がたくさんいらっしゃると思います。 まあ、それも一理ありますが、実はそういった反論は、宗教嫌いというだけです。 まず政教分離。これは特定宗教が、政治をつかって、信者以外を差別するようなことがないように、という原則です。宗教を持った人間が政治に参加するのを規制するものではありません。 政教分離に反する政体は、特定宗教の聖職者がそのまま政治のリーダーとなり、その宗教の戒律がそのまま法律となっている政体です。 現在の日本やアメリカは、政教分離の原則には反していません。 次に、「正義」の定義ですが、宗教的な考え方から言えば、「正義」とは「その宗教の信念」であるともいえます。コレに対して「それは間違っている」とか「他にも正義はある」というのは、ナンセンスです。信仰心の問題なのですから、他人にどうこう言われることじゃない、と思っているからです。 さらにいうなら、私達は、宗教に入って無くても、各々「正義」というものを持っています。例えば、政党などでは党の綱領などがあり、そういった信念に基づいて政策を練っています。宗教という形をとっていないだけで、やっていることは同じです。 最後に信心の強制ということですが、これまた、宗教だけのことではありません。 すべての法律は、社会通念といったものにのっとってつくられています。この「通念」というものは、「信心」と変わらないものだと言えます。 たとえば、私は賄賂や談合は全然悪くないと思っています。しかし、周囲の人が悪いと決めており、それに反すれば刑罰があるのでやりません。これも強制ではないでしょうか? 世の中には多種多様な考え方をもった方々がいます。各種利益団体、政党、市民団体、NPO、などです。 それらが政治に対して各々の信念をもとに、行動しています。 それが認められるのなら、宗教が政治に関わっていくのも認められるべきではないでしょうか? ちょっとまとまりがないのですが、アメリカ大統領選以降、日本で宗教右派の行動について否定的な見方が広がっているようなので、ちょっと自分の感じたことを書いてみました。 ちなみに、私は公明党が勢力を伸ばすのは反対ですよ。ただ、だからといって、存在は否定しません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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