(【第14章】へもどる)
1999年8月。
長野県志賀高原において「夏期勉強合宿」が実施された。
8泊9日で行われ、
高速道路のサービスエリアで、
講師が大声で怒鳴り散らす「軍隊式指導」、
しかし、その効果の高さは参加した者にしか分からない。
その場所に、鎌田もいた。
入社して3年、結局鎌田は毎年合宿にスタッフとして参加し、
残り少ないメンバーにおいて、当時の合宿の精神とシステムを
誰よりも把握するうちの一人となっていた。
すでに業務の引継ぎや身辺整理を終え、
この合宿を成功させることが、彼の最後の仕事であった。
その鎌田は、日程の途中、5泊6日の日程で合宿を終え、
一足早く志賀高原を去る小学生とともに、業務を終えた。
渾身の力を出し切り、合宿スタッフでは事情を知るわずか2名の講師に別れを告げ、
鎌田は生徒とともに東京に戻った。
彼を見送った講師のひとりが、小田切であった。
東京の各校舎は、夏期休業中であった。
鎌田は最後に、佐々木、小田切をはじめとする仲間たちに
一通一通、直筆の置手紙を残し、誰に見送られることもなく、
ひっそりと社を去った。
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鎌田が去った後、いよいよ会社は、
崩壊への秒読みに入っていった。
もはや、各校舎には、
業務が成立しうるギリギリの人員しか残っていなかったため、
以降に退職を申し出た者は、
いわく「損害賠償を請求する」などと、
脅迫じみた説得で残留を承認させられる結果となった。
もう、辞めることすらできなくなったのである。
それでも、会社を去るものはいた。
もっとも、円満退社は不可能な状況である。
辞意を似たことをほのめかすと、脅迫説得が即座に入る。
合意による退社が不可能であるなら、
残る手段は「逃げる」ことのみだ。
どのみち、立て替えた出費の返金はもちろん、
退職金はおろか、
何ヶ月も遅れている給料の支払いも見込めない状況である。
「円満」であろうが「逃亡」であろうが、大した違いはない。
そう考える者がいても、それを責めることができようか。
残るメンバーは、両手の指で数えられるくらいにまで減っていたが、
突如行方をくらます者がポツリポツリとあったのである。
週に1日でも休めば、
どこかの校舎で授業ができないという事態が起こる。
佐々木も小田切も、校舎間を飛び回った。
社長は、ついに会社組織の解散を決定した。
実質的な「倒産」であったが、
「倒産 ⇒ 廃業」とするかどうかは、残ったメンバーに委ねられた。
まず、会社組織は解体される。
自動的に、社員は職を離れることになる。
残るのは、まだ生徒の残っている「校舎」である。
そこで、現在の各校舎長を中心に、
その校舎を譲り受けることができる。
その後は「校舎」がひとつの組織となって、
運営を続けるもよし、廃業させるもよし。
もちろん、校舎を引き受けることなく、
組織解体とともに、その場を離れてもよし・・・。
結局、残ったメンバーは、
生徒を見捨てることのできない、
誰よりも「先生」らしい「先生」たちであった。
社長からのこの提案に、真っ先に応じて校舎独立を決意したのが、
武蔵藤沢校の教室長であった佐々木であった。
結局、組織は5つに分裂した。
佐々木を含めて、社長業に就くのは初めての者のみで、
登記から経営手法から、何から何まで初めてのことであり、
不安に思う新社長も多かった。
そこで、
元社長の提案により、
当分の間、各会社の経営コンサルタントとして、
元社長が参加することになった。
一定の費用を元社長に支払い、
コンサルティング契約を結び、
ひと月に1回、会社の経営状態を診断してもらう。
そして運営向上のための相談を行い、経営に反映させていく。
ほかの4人の新社長同様、佐々木もまた、
元社長とのコンサルティング契約を結んだ。
こうして、武蔵藤沢校は、その実体を残した。
佐々木が教室長であることや、
以前からいた先生が講師として残ったのには変わりがなかった反面、
「愛夢舎」という新しい組織がこの校舎を運営していることは、
あまり公にされなかった。
そしてまた、この「仕組み」に、
大きな罠がしかけられていることに
気づいた者もいなかった・・・。
~【第16章 「愛夢舎」】につづく