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【保科正之】 ※2008年10月16日 10時33分39秒の書き込みからお読み下さい。 このシリーズの最後に、徳川秀忠と保科正之公の関係について記しておくことにします。徳川秀忠は第二代将軍、保科正之公は信州伊那高遠の城主であり、後に山形へ移封され、寛永二十年(1643)に、会津に移封されました。この時の禄高は23万石です。 保科正之公は、記録上は信州伊那高遠藩主・保科正光の嫡子になっていると言われています。しかし、将軍秀忠と神尾家の女性であったお静の方との間に生まれた子供であることは、かなり広く知れ渡っていました。生まれてまもなく、お静の方は正之公(幼名・幸松)と一緒に、武田信玄の次女である見性院という人物に預けられます。しかし、そこは尼寺ですから、本来であれば音小名はいることが出来ない場所です。そこで、見性院は保科正光の養子として幸松を出すことにしました。高遠と甲斐は峠を挟んでその両側にあるところです。ですから、見性院が保科家を知っていたとしても不思議ではありませんが、この保科正光には嫡子がいなかったにもかかわらず、側室を迎えていません。そして、実弟の正貞を養子として迎えていましたが、正之を嫡子として幕府に届け出ています。これで、記録上、将軍秀忠には側室はいなくなります。ネット上の某百科事典サイトでは、お静の方が側室になっていますが、保科正之公が将軍秀忠の子供であるにもかかわらず、、記録上は側室になっていません。 この保科正光は、長野市の南東部、保科郷にあった保科家の館で生まれたとされています。妻の名前は判りませんが、あの有名な真田幸村の姉妹であることは間違いないようです。保科郷と真田家の居城があった真田は、大松山という山を挟んでその両側に位置しています。保科郷から真田へ向かう道を上っていくと、ラグビーファンの方ならよくご存じの、早稲田大学ラグビー部の合宿所のところへ出ます。菅平というところですが、そこから上田市に向かって下りていく道の途中に真田があります。この真田家の勢力範囲にも、そして保科郷にもキリシタンの痕跡が残っていることを確認しています。その保科郷で生まれた保科正光に、嫡子がいないにもかかわらず側室がいなかったということは、江戸時代の初期には考えられないことなのではないでしょうか。そうした意味では、将軍秀忠に側室がいなかったことも不思議なことです。というか、お静の方を何故、側室として迎えなかったのかということが実に不思議です。秀忠は「恐妻家」だったので、側室を迎えられなかったとされていますが、会津キリシタン研究所では200%あり得ることですが、江戸時代初期の将軍家です。 いつだったか、テレビで徳川家のドラマをしていた時に、家康の前に側室たちが並んでいるところへ、家臣がやってくるシーンがありました。側室は大奥から出ることが出来ません。家臣は大奥へ入ることが出来ません。テレビのドラマは、あくまでもドラマでしかありません。時代考証をされている方のお話をお伺いしたことがありますが、学者が時代考証をしても、最終的な判断はディレクターがするそうです。「水戸黄門」などその典型かもしれません。テレビのドラマは学問性よりも、視聴率の世界ですから、それも自由だと思います。しかし、歴史の現実は冷ややかな目で見ないと、いつの間にか歴史が小説になってしまいます。小説はあくまでも小説でしかありません。そうした意味では、幕府に提出することを前提に編纂された『新編会津風土記』はそれなりものでしかありませんが、藩士が自由に編纂した『会津鑑』は脚色や隠蔽が少ないのではと思えることもあります。しかし、まだ若い殿様に会津藩史を知っていただくために書かれた会津藩『家世実紀』は、正に会津藩の正史であるということが出来るかと思います。こんなことは絶対に幕府には知られたら困るだろうと思われる記録までもが編纂されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.22 06:08:01
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