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カテゴリ:キリシタン
【会津一周、首無し地蔵の旅262】 前述までの村から少し離れた村にある、お寺の境内にある墓地にあった首無し地蔵です。錫杖の錫の部分と宝珠を持った手の部分も破壊されています。そしてこの台座も本来のものではなさそうです。地蔵菩薩像の最下部にある四角い部分を填め込む穴が彫られていません。墓地整備の時に、残っていた何かの基礎が、この首無し地蔵の台座に用いられたのであろうと思われます。 この墓地にも不思議なものが残っています。ことに、宗旨が異なる文字列の彫られている墓石が、お寺を挟んで反対側にある墓地に残されています。それ程大きな村ではありませんから、宗門人別制度が施行された時に、この村の家々が宗旨の異なる二つのお寺に分けられたとも思えません。 かなり以前にご紹介したことがありますが、会津には、家数が5軒程度の村に、宗旨が異なる三つのお寺の檀家があるところがあります。村の方がそれを大変に不思議がっていらっしゃいました。伝承は残っていないようです。しかし、会津藩『家世実紀』に記されていることからすると、理由は一つしかないとしか思えません。 保科松平家の「転切支丹類族」移住開墾政策です。何しろ、保科正之公が会津藩主の時に、まだ転んでいないキリシタンを病弱や高齢を理由に、自分の村に帰らせてしまっています。そして、「転切支丹類族」移住開墾政策で移住させられた場所が、米作に十分な水がないところでは、かなり大掛かりな堰も造っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.12.24 21:53:13
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