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2011.04.29
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カテゴリ:キリシタン

【会津鶴ヶ城の御三階】

 上の写真は、阿弥陀寺の境内に財団法人東日本鉄道文化財団と七日町通り町並み協議会が建てた案内板です。下の写真は、2003年7月9日に撮った写真で、御三階の石垣のところに建てられていた案内板です。どちらにも「密議所」という言葉が用いられていますが、おそらく戊辰戦争後に会津藩士から伝わった伝承であろうと思われます。

 そもそも、本丸御殿に入ることが出来た会津武士は限られた人々でした。そして、平常時に殿様が家老と話をする部屋は、ごく限られた家臣しか入ることが出来なかったところです。ですから、「密議所」として使われたのは、戊辰戦争の時であったであろうと思われます。戊辰戦争の終盤には、本丸御殿は野戦病院化していたとされています。下級武士たちは、この時に初めて本丸御殿に入ったであろうことは想像に難くありません。また、何回もここで記してきましたが、『会津鑑』にも『新編会津風土記』にも会津藩『家世実紀』にも、「御三階」という名称は出てきていません。ただ、『新編会津風土記』の編纂は家老の北原釆女が中心になって行われています。この北原釆女はこの御三階を目にしたことがあったかもしれません。にもかかわらず、『新編会津風土記』は「御三階」に関して沈黙しています。

 そして、本丸御殿は厳重な警備が為されていました。部外者が本丸御殿に入ることが出来たのは、本丸御殿の北側入口だけです。鉄門(くろがねもん)は、平常時には閉ざされていました。あそこは、殿様とそれ以上の身分の人が通るときにしか、開門されることはなかったはずです。だとすれば、平常時に、密議をわざわざ御三階でする必要はまったくありません。

 そして何よりも、本丸の外からあの御三階が見えたであろうと考えられる場所は、二之丸の土手の上しかありません。高石垣には土塀がありましたから、御三階の高さを考えると、高石垣のお堀を挟んで反対側にあるテニスコート付近からも見えなかったと考えられます。あの「御三階」は蒲生氏郷の築城時に建てられたものだとされてきました。キリシタン大名の城の中にお御堂(礼拝堂)があっても不思議ではありません。ヨーロッパの城には、領主とその家族のための礼拝堂がありました。有名な宗教改革者・M.ルターはそうした礼拝堂付きの司祭でした。こう考えると、本丸御殿の北側の曲輪にある「謎の階段」の謎が解けてきます。






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Last updated  2011.04.29 21:01:15
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