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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のキリシタン】 前述の石碑が建てられているところへ行く細い路の入り口付近に建てられている案内板です。しかし、小生が最初にこの付近で見た案内板には「ばてれん塚」と記されていました。その時にはまだ、土津神社の手前右側には、会津藩の殿様が参拝に来た時に休憩所として用いられていた建物が残っていました。 ですから、会津藩の藩主を祀った神社を、何故、「ばてれん塚」のすぐ近くに建てたのか、非常に不思議に思えたのです。会津では「キリシタン」という言葉を耳にすると顔を曇らせる方が大勢いらっしゃいます。そして、いつの間にか消えてしまった「子安観音」石仏もあります。ここでご紹介した「子安観音」石仏で消えてしまった者が1体、ある方がそれを見に行った時に見付けることが出来なかった「子安観音」石仏が1体あります。雪の下に埋まっていない限り、判らないはずはないと思われる「子安観音」石仏です。 1979年以来、あの「ばてれん塚」と書かれた案内板のことは忘れられません。そして、あの場所は、現在のように整備された時に発掘され、人骨が出てきたということを確認しています。そして、セミナリオがどこにあったのかを教えて下さった方もいらっしゃいました。あの方のことを思い出すと、その周辺にお住まいの方々もご存じなのであろうと思われます。 保科正之公がお亡くなりになるまでは、土津神社も、その上にある墳墓も、県道から土津神社へ上がっていく広い参道もありませんでした。そして、現在あるその広い参道の両側は、江戸時代には「社人町」と呼ばれていたことが、『新編会津風土記』から判ります。土津神社で雅楽などでお仕えするための武士の家々でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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