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テーマ:信濃の風景(234)
カテゴリ:キリシタン
【信濃の風景】 高遠城趾の北西にある樹林寺というお寺の本堂と、入口に建てられている説明板を撮った写真です。第1回目の寺院本末帳の提出命令が、本山格のお寺に幕府から出されたのは、寛永九年(1632)のことで、翌年までが提出期限でした。その後、元禄五年(1692)に第2回目、延享二年(1745)に第3回目、天明六年(1786)に第4回目、寛政二年(1790)に第5回目、天保五年(1834)に第6回目の寺院本末帳の提出命令が幕府から出されています。 これは明らかに仏教寺院を監視し、統制する目的であったのであろうと思われます。所謂「戦国時代」に戦国大名を手こずらせたのは、明確な宗教的信念を持って武装していた比叡山や高野山、あるいは一向宗といわれた親鸞系のお寺でした。ことに、一向宗は加賀で独立国家とも言える集団を形成していました。その影響からか、加賀百万石で有名な前田家の金沢には、かなりの数の親鸞系のお寺が残っていますし、加賀前田藩の藩士の家々の中には、親鸞系の宗旨のお寺の門徒になっている家々が少なくありません。 だた、この説明板に記されていることで不思議なことは、保科正之公の生母であるお静の方は日蓮宗で葬儀が行われていることです。また、保科正直・保科正光父子の墓石は、臨済宗のお寺に建てられていることですが、しかし、保科正光が亡くなった時にも、お静の方が亡くなった時にも、まだ宗門人別制度は影も形もありません。ですから、お静の方の葬儀を執り行った日蓮宗のお寺のことが気になって仕方がありません。 「お静の方の実家である神尾家が日蓮宗の檀家だったから」ということを耳にしたことがありますが、神尾家がその当時に住んでいた板橋竹村周辺には日蓮宗のお寺はありません。東京分室からそれほど遠くないので、あったら出掛けようとネット上のお寺のリストを探したのですが見付かりませんでしたし、地図を丹念見たのですが、日蓮宗のお寺は見当たりませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.05 15:07:05
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