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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のキリシタン】 会津のとある道路沿いにある村々の「子安観音」石仏を4体、手前から順番に並べてみました。左上の「子安観音」石仏がある村から、右下の「子安観音」石仏がある村まで、道路がどこでどうなっているか判っていれば、車で10分までかからないだろうと思います。そして、左上の「子安観音」石仏は、小さな祠あの中に祀られているので、外からは見えませんが、他の3体は車窓から見えます。 今までに、この道を何回通ったか判りません。冬期間は雪が多いので別の道を走りますが、雪がない時期には、ある市町村へ行く時にはここを通ることが多いです。それで、キリシタンの研究論文を書き始めた頃に、この一帯の史料を徹底的に解析してみました。と同時に、これらの村々で耳にしたことを同時に考えていました。 当然のことなのですが、幕府の対キリシタン政策を並べ、そして保科松平会津藩の対キリシタン政策をその間に挿入したものを考えながら、それまでに作製してきたデータベースを並べ替えると、保科松平会津藩の対キリシタン政策がはっきりと見えてきました。そしてあの時は、そこまでにしようと考えたのですが、最終的に『会津キリシタン研究 補遺』を書き上げたあとで、小生が結論として考えていたことに関する伝承を耳にしました。 歴史は時の流れです。しかし、時そのものは実在ではありません。真っ暗な無音室に入っても、人間は時を認識できます。ですから、人間が自分の意識の変化を時として認識しているに過ぎません。その認識した変化が時であると言っても過言ではないだろうと小生は考えています。歴史研究はこの変化を明らかにする学であると考えています。そして、あらゆる史料は、目的を持って記されていますから、多くの場合、恣意的な判断が入り込んでしまいます。そうした恣意的な判断を排除してくれるのが、こうした残されているモノです。10分もかからずにこの4体が祀られているところを車で走れるという現実が、最終的には保科松平家の対キリシタン政策です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.28 08:55:25
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