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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科正直・正光父子の墓】 高遠町中心部にある臨済宗妙心寺派の大宝山建福寺というお寺の墓地に、保科正之公の養祖父・保科正直(中央)と養父・保科正光(左側)の墓石が建てられています。保科正直の戒名は「建福寺殿天関透光大居士」で、保科正光の戒名は「大宝寺殿信巖道義大居士」です。そして、保科正直が亡くなったのは慶長六年、保科正光が亡くなったのは寛永八年であると、近くに建てられている案内板に記されています。 保科正直が高遠城主になったのは慶長五年(1600)ですから、保科正直はその翌年に亡くなっていることになります。その年に、保科正光が高遠藩主になっています。そして、保科正光は寛永八年(1631)になくなり、保科正之公が高遠藩主を継がれました。皆さんはもうお気付きかと思われます。この時代にはまだ、宗門人別制度は影も形もありません。死者に戒名を付ける習慣も勿論ありません。 そして、小生が様々な墓石を見てきた限りでは、この時代に四角柱の墓石を建てる習慣があったとも思えません。ですから、明らかに、後代になって建てられた墓石であろうと思われますし、戒名もその頃に付けられたものであろうと思われます。また、このお寺は安元二年(1176)に建長寺の大覚禅師によって開山された「鉾持山乾福興国禅寺が」天正七年(1579)に駿河国清見寺住持透谷東谷禅師によって中興開山され、保科氏の時代に大宝山建福寺と改号した。」と説明板に記されていました。 非常に興味深いことですが、このお寺の山門の手前左側に、三十三観音が祀られています。その写真は、この写真を撮った時に撮っていて、その後ここでご紹介しています。また、右側の墓石は武田勝頼の母、武田信玄の側室で「諏訪御料人」と呼ばれている諏訪頼重の娘の墓です。「乾福寺伝梅巖妙香大禪定尼」と彫られていると、説明板に記されていました。亡くなったのは「弘治元年」だと記されていますが、弘治元年は1543年です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.17 07:22:31
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