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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の転切支丹類族墓石】 この4基の墓石は前述の薬師堂のあるお寺の墓地にあった墓石です。左上の墓石には「歸空」、右上の墓石には「歸眞」と彫られていて、左下の墓石に彫られた戒名は「一」で始まっています。そして、この墓石の右側面には「昭和六年一月六日」と彫られています。また、右下の墓石では彫られている戒名の位号の部分が破壊されています。そして、右側面には「天」年号が彫られています。 それだけではありません。この中の墓石の一つには、室町時代末期までは明らかに武装農耕集団であったと考えられる家の姓が彫られています。また、新しく建てられた合葬墓に彫られている姓の中にも、同じことが言えます。ただ、この村の場合は、蒲生氏郷が会津の領主になった時に、蒲生に仕えなかった姓の家々が残っています。 それでいて、こうして転切支丹類族墓石が残っているわけですから、蒲生氏郷がキリシタンの武士だけを受け容れたとは言えません。確かに、蒲生氏郷よりも前にキリシタンが会津に入っていた可能性は十分にありますが、そのことに関することは史料には見当たりません。 このことは拙著『会津キリシタン研究II』に少し詳しく記してあります。それを示す場所を何回も訪ね、当該市町村史を、重箱の隅をつつくように検証した結果です。日本のキリシタン史は、武士がまずキリシタンを受け容れたことに始まるであろうと思われます。そして、そうした武士集団の中の武将がキリシタンになることによって、家臣の領地での布教を許可したと考えれば、室町時代に会津一円にキリシタンが伝わっていても不思議ではありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.26 09:52:32
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