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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある山の中の村】 前回までの一帯にある、とある村にお寺が建てられているのですが、残されているモノからすると密教のお寺のように見えます。この2枚の写真はそのお寺の境内で撮った写真です。上の写真に写っている石塔には「庚申塔」と彫られていますが、下の写真の卵形墓石には「法印快済」と彫られています。そして、このお寺の境内には観音堂が建てられていると『新編会津風土記』に記されているのですが、既に解体されてしまっていました。 そして、残っている他のモノからしても、このお寺は当山派の修験のお寺だったのかもしれません。江戸時代には会津にも修験道が広がっていて、それを継承しているお宅は現在も残っているところがあります。ただ、気になったのは、この村の墓地には転切支丹類族の墓石が多数残っていることです。そして、この村には保科民部正興の墓が残っています。それで、ものすごく気になったのですが、この一帯のある村に残っている習慣を知り、伊那高遠のとある村に、それと共通する文字列が彫られた石塔があるのを思い出し、納得することが出来ました。 そもそも保科家は、現在は長野市になっている保科郷にいた時には既にキリシタンになっていたと考えられます。それなりのモノが保科郷に残っています。保科家に纏わることが非常に気になっていたので、保科郷を3回ほど訪ねました。そして、最初の時は、保科郷から菅平へ上り、そこから旧真田町へ下りて来ました。あの一帯は、子供の頃から何回も出掛けているので、地理的なことはかなり頭の中に入っています。そして、保科正光の妻が真田昌幸の娘であることも判っていますから、保科正光と妻の婚姻は、正に政略結婚であったと考えられますが、真田家にキリシタンがいたことは、そしてそのキリシタン武将が蒲生氏郷に仕官していることも明らかですから、単純な政略結婚ではなかった可能性も十分に考えられます。 保科民部正興が蟄居させられた後、この村へ謫居させられたのですが、その理由がどのようなことであったのか、『会津藩家世実紀』は非常に理解しづらい書き方をしています。体力がしっかりある時に、もう一度、読解を試みてみたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.04.05 18:51:00
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