2015/04/16(木)17:23
会津のとある村の墓地にある「子安観音」石仏
【会津のとある村の墓地にある「子安観音」石仏】 この「子安観音」石仏は、また別の村の墓地にあるのですが、圃場整備の時に畦から掘り出されたものだとされています。伊那谷にも同じような観音菩薩石仏が田圃の畦にあったのですが、それらはすべて村のお寺の境内に並べられています。それらの写真はここでもご紹介したことがあるのですが、中には大日如来が彫られているものもあります。 そして、あのお寺の本堂も不思議な方向を向けて建てられています。ご住職にはお会いできませんでしたが、ご住職の奥様から色々なお話をお伺いすることが出来ました。京極高知が飯田城主だった時代には、伊那谷の全域が飯田領でした。そして、関ヶ原の戦いの後、高遠は保科家の領地になりました。保科正直・正光親子の時代です。しかも、京極高知は高遠まで出掛けて、そこで洗礼を受けていると、『信濃のキリシタン』という長野ローマ・カトリック教会が発刊した冊子に記されています。 考えられることは、高遠がキリシタンの拠点であったということです。これに関しては、これまでにもここで何回も書いてきました。そして、保科正直は、それまでいた、下総多胡の樹林寺にあった夕顔観音に模した像を彫らせ、伊那高遠に樹林寺というお寺を建てたのですが、下総多胡の樹林寺は臨済宗のお寺なのですが、伊那高遠の樹林寺は真言宗のお寺です。 臨済宗のお寺にあった「夕顔観音」とは、どのような観音菩薩像だったのでしょうか。これも何回も書きましたが、臨済宗のお寺で観音菩薩像を祀るということは考えられないことです。これに関しては、とある曹洞宗のお寺のご住職も「ない、ない。」と微笑みながらおっしゃっていました。