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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【秩父の金昌寺】 この写真も最初に金昌寺を訪ねた時に撮った写真です。胸のところに子供が彫られています。観音菩薩像に聖母マリアを隠すことは、マテオ・リッチに始まったのであろうと考えられています。また、そもそも、仏教には「子安観音」という観音菩薩はありません。 中国にいたマテオ・リッチは、日本のキリシタンの情況を考えて、観音菩薩に乳児を抱かせた磁器製の像を作らせ、それを日本に送りました。この磁器製の像の写真は、ネット上に大きな写真があります。そして、この磁器製の聖母マリア像は、現在も残っているところが少なくありません。 そうした聖母マリア像を高遠石工が彫った可能性は十分にあります。ただ、伊那高遠には乳児を抱いた観音菩薩石像や観音菩薩石仏はほとんど残っていませんが、あるお寺の境内に並べられている三十三観音石仏の中の一体は乳児を抱いています。伊那高遠を訪ね初めてすぐの頃でしたので、非常に驚いたのですが、保科郷をじっくり巡り、善光寺平を巡ったら、信濃川・犀川そして天竜川沿いにキリシタンが広がっていたことは間違いないという結論に達しました。そして、絵島の墓石の写真を見付けて、彫られている文字に気が付いた時に、不思議に思えていたことも解決することが出来ました。 やはり、新潟から信濃川沿いに信州に、阿賀野川沿いに会津へキリシタンが入って来ていたようですが、その時に広がったキリシタンは、それほど激しい弾圧を受けていなかったからなのか、現在でもキリシタンの痕跡がその一帯に多数残っています。ですから、荒川を溯れば江戸から秩父へ来ることが出来ますから、当然のこととして秩父一帯にもキリシタンが広がっていて、この金昌寺がその拠点の一つであったのであろうと思われます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.04.28 17:21:37
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