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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の不思議な村】 一昨日の夕方、集まりが終わった後で、集まった方々をとある村へご案内しました。その村は、会津のキリシタンを研究し始めた頃に、非常に不思議さを感じた村です。理由は、『新編会津風土記』にこの村の名前が載っていないことでした。この村へは、会津に住みはじめてすぐの頃に来たことがあったので、『新編会津風土記』に記載があっても当然だと思っていたのですが、しかし、何回調べてもこの村の名前は載っていませんでした。 その後、この村のことに関して別の方からお伺いして、体調が優れなかったので、友人にお願いして一緒に行ってもらいました。2003年のことです。そして、墓地の一番奥に建てられているこの墓石を見付けました。勿論、この墓石のことは『新編会津風土記』には載っていません。そして、『寛文風土記』に幕末の記録はありませんので、会津の史料はこの村に関して沈黙していると言わざるを得ません。 それで、帰りがけに村の方とお話をすることが出来、この墓石が小山城主であった人物の墓であることを確認することが出来ました。但し、この墓石が建てられたのは、保元元年ではありません。その頃にはこうした墓石を建てる習慣は日本にありません。保元は12世紀半ばです。 会津史をご存じの方は、何故小山城主だった人物の墓が会津にあるのか、お気付きになられるだろうと思います。また、村の方に確認をしたのですが、江戸時代後期までは、この家の屋敷は鶴ヶ城の外堀の内側にあったとのことでした。転切支丹移住開墾政策です。それも、武家が帰農しているということになります。そして、最近になって、この家のことをまた別の方からお伺いすることが出来ました。小生が、保科松平家が会津藩主だった時代に、外堀の内側にキリシタンがいたと書いたことがありますが、こうした残されたものと伝承から確実だと考えられるからです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.15 10:05:41
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