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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【北上山地のとあるお寺の墓地の入口にあった転切支丹類族墓石】 前回ご紹介した墓石群の中の一部を撮った写真です。左上の写真に写っている墓石には「大正十一年」と彫られています。1922年つまり関東大震災の前年です。この頃にも、転切支丹類族にはこうした<○>が彫られていたということになります。北上山地を訪ねたあとで、写真を確認していたら、この「大正十一年」と彫られていることに気が付きました。少なくとも、この一帯では、大正年間にも「転切支丹類族」ということが考えられていたということになります。それでいて、墓石に彫られている文字や文字列が切削されている墓石には出会いませんでした。会津では多くの墓地で、戒名の部分が切削されている墓石に出会います。 今までに、福島県の中通り地方や群馬県あるいは栃木県で転切支丹類族墓石に出会ってきましたが、戒名の部分が切削されている墓石には出会ったことがありません。小生は、戒名の部分が切削されていたり、墓石の前面が切断されている墓石を「表面破壊」墓石と分類してきましたが、会津藩領でも、現在は新潟県になっている一帯では、「表面破壊」墓石はほとんどありませんでした。つまり、「表面破壊」墓石は会津に特有なものであるということが出来るだろうと思っています。 つまり、会津のキリシタン史には、他の地域のキリシタン史とは異なったことが起こっていたことになります。それも、残されている「表面破壊墓石」に彫られた年号からすると、戒名の部分が切削されたのは、戦後も戦後、小生がまだ高校生だった頃のことであろうと思われます。そして、戊辰戦争の頃まで、外堀の内側にキリシタンが隠れていたことも、残されている伝承から明らかです。 1998年から会津のキリシタンを研究するために、会津藩領や天領南山御蔵入を何回も巡ってきました。そして、不思議な物に出会い続けてきたのですが、最近になって、それらの不思議さをすべて解決することが出来ました。決め手は『会津藩家世実紀』に残されている会津藩の記録です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.07.09 17:14:31
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