3192753 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

会津キリシタン研究所

会津キリシタン研究所

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

孤峰庵宗信

孤峰庵宗信

Calendar

Favorite Blog

日の出の時刻につい… 楽天ssさん

キリスト教カルトを… TERA DREAMさん
momo_maruの日記 momo_maruさん
有益情報 y394649さん
墓石・仏像彫刻・石… 石を通じて皆様の幸せを願う「いまが大事」さん
Reception loggings … josef_zenchanさん
アンテナショップ南… アンテナショップ南会津さん
自分らしく生きていく ルハマさん
会津:野仏、庚申塔… Piyo3344さん
如意宝珠を求めて、… kaiundouさん

Comments

はらo@ Re:冬の奥会津・旧伊南村内川(01/28) こみね様まだご健勝でしょうか。幼い時の…
西日本の民@ Re:会津の墓石(12/03) 年を天と記すケースや位号を略するケース…
http://buycialisky.com/@ Re:会津の風景(01/05) compra cialisover the counter viagra or…
http://buycialisky.com/@ Re:庚申供養塔(11/27) buy cialis soft canadacialis duration o…
http://buycialisky.com/@ Re:厳冬期の南会津(11/16) impotence pill cialis softgerman remedi…

Freepage List

Headline News

2015.11.01
XML
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン

          IMGA3845_900_928_B.jpg

【保科郷にあった「子安地蔵」と宝篋印塔群】

 2009年5月17日に保科郷を訪ねた時に撮った写真です。大きな六地蔵が祀られていましたが、そのうちの一体は幼児を抱いたものでした。そして、とあるお寺の墓地には宝篋印塔が何基も残っていました。最初に保科郷を訪ねたのは、2003年でしたが、その時はゆっくり巡ることが出来たなかったので、木島平を訪ねたあと、保科郷を再訪したのですが、保科郷にもキリシタンが広がっていたことを確認することが出来ました。

 保科家が伊那谷に最初に移動した理由ははっきりしていません。しかし、保科一族がキリシタンになっていたことは、伊那谷にはっきりとした証拠が残っています。ですから穴山梅雪の妻・見性院が何故保科正之公(当時は幸松)を保科家に養子に出すことを提案したのかが気になっていたのですが、2009年に保科郷を再訪して理解することが出来ました。

 そして何よりも、保科正之公の生母・お静の方の実家がキリシタンであったことは、『会津藩家世実紀』に残っている文書から明らかになっています。そして、お静の方は日蓮宗に帰依していたとされていますが、お静の方が幸松と共に伊那高遠へ移住した時にはまだ、宗門人別制度は施行されていません。そして、実に不思議なことなのですが、お静の方は幸松を生んだ後も、秀忠の側室になっていませんし、将軍秀忠には側室が一人もいませんでした。

 そして、幸松は保科正光の養子になったのですが、保科正光の妻は真田幸村の姉妹でした。しかし、真田一族にキリシタンがいたことは、蒲生氏郷の重臣に真田隠岐守と記されている人物がいたことが、天正十九年蒲生家家臣帳に残っています。この真田家の城があった上田市真田町は保科郷の真ん中を上がっていく道を上っていくと、菅平に出て、そこから少し下ると戸石城があった一帯に出ることが出来ます。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2015.11.01 10:22:45
コメント(0) | コメントを書く
[キリシタン] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.