カテゴリ:「友引」迷信
年末は、年賀状のまえに「喪中葉書」がけっこう届く。
友達関係も、お互い、親をなくす年代。 どういう新年の迎え方をするかはそれぞれ「自由」であり、(たとえば浄土真宗)、 (たとえば金光教)。 本当に「服喪したい人」がすればいい。 それが憲法で保障された政教分離。思想信条の自由。 「気持ち」ぬきに「そういう決まり」で欠礼するのは故人に失礼じゃない? 大切な人なら、亡くなった時に知らせりゃいいのに、年末になって、知らん人に(1月2月のことまで)教え回らんでも…。 そもそも、年賀状が、 「お蔭さまで新しい年を迎えることができました」 という感謝の挨拶なら、 控えなくちゃならない「理屈」はない。 (「謹賀新年」って、謹んで、の挨拶だと思う) クリスマスが、ケーキ屋のイベントだったり、 バレンタインが、チョコ屋のイベントだったりするのと同じように、 お正月が単なるイベントと思うなら、自粛もあるだろうけれど、 それを公言するのは恥ずかしいことでは? (服喪休暇を不正申請する京都市職員が「服喪」してるはずがない) なお、明治神道の思想では、「神棚」をまつる家に「ケガレ」た人(遺族)が行くのは(あるいは氏子がケガレた家に行くのも) 「ケガレがうつる」 と嫌われるが、 「年賀状でうつる」なら、「喪中葉書」でもうつるんじゃ? (eメールはどうだ?) (服喪は儒教の思想だが、「天に召された」クリスチャンの「生協一郎さん」に、「喪中」を押し付けたらあかんやろ。生協太郎さん。) ※稲荷大社や金比羅さんは「ケガレ」をいう神様ではないので、 初詣に行って失礼ではないはず。 (私事で豊作祈願や安全祈願をやめるほうが「神様」に失礼?) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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