カテゴリ:地域の話題
私が京都市内に住んでいたころ、市バスの「消毒」に、農薬の「ジクロルボス」(DDVPの表示)が使われていた。「直接人体に触れる座席に使用するもんじゃないぞ」と、九条車庫に苦情を言ったが無視された。
「法律で定められている」の一言。 (毒を消すのが「消毒」だが、毒を撒いて虫を殺すのは「消毒」なのか?) 最終的には当時の市議(左京区選出のベテラン・有吉節子氏)にたれ込みして、「議員の圧力」に頼った。 (有吉市議は「普通のオバチャン代表」だが、交通局への申し入れは穀田市議が行ったという。しかし、穀田議員、覚えてないか? そんなにもめずに「一声」で解決したか…) 「農学部OBの資料」だから、女子大OBや文系OBが手を加えずとも、そのまま使えるはずだが、(多分、関係者に裏は取ってるだろうと思う) 「同じこと」を要求しても、民間人は無視するが、議員にはちゃんと対応する、というのが京都市のけしからんところ。 (K同なら、言われてなくてもお膳立てする) 結局、「圧力団体」に頼る風潮が市民の中に定着する。 かつての、京都府知事・蜷川虎三氏の有名な言葉。「知事は樽神輿の樽で、担がれるだけ。神輿を担ぐのは住民一人一人だ」 戦後の地方自治の先駆けとして「地方自治の灯台」とも呼ばれた京都府だったが、 意外と、長年の京都人の根性は、「担ぐ」人にぶら下がって附いていく、というもの。 (老舗さんが「戦前から」というのは「応仁の乱」だったりする。) 真正面からの「敵」には身体を張って戦うが、「横」からの利益誘導で分断されやすい。 (教義の違うわけでない本願寺が西と東に分かれているのも、豊臣と徳川の横槍。真正面から戦って痛い目をみた信長の経験から学んで) 市長選挙での中村候補惜敗のポイントが左京区だと思うが、 「民主市政の会」参加の団体内で、「身内の選挙」に「周りの人々」の敷居を高くしてなかっただろうか。 (村山候補。「間取り」のわからん政策だが、敷居だけは低そうだ…) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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