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昨夜の葬儀がとても素晴らしく、愛情に溢れていただけに、それまで悲しく淋しいばかりだった気持ちが大分軽くなり、ひょっとしたら死者と生者の間の壁は思ったより低いのではと感じました。確かにMさんは死に、肉体は冷たくなり、今日には骨となったのですが、彼女の明るい笑顔と彼女の心はいまも近くにあるような感じがしています。今までは「死ねばお終いよ。死者と生者の間の溝やギャップは大きく、生と死は断絶している」と思っていました。
しかしその考えに疑問を持ち出したのは私が3歳の時に戦死した父を求める旅を2003年に始めてからです。父が今も沈んでいるマラッカ海峡を訪れ、父の思いや愛情を感じ始めた頃です。その頃亡くなった高校時代のサッカー仲間で親友だったG君の存在も、彼が生きていた時以上に身近に感じるようになりました。彼の生前は郷里の鹿児島に住んでいる彼と会うのは数年に一度だったのですが、彼の死後は彼の存在をいつでも感じることが出来るようになりました。 朝仏壇で祈る時、週末の昼過ぎ庭の草花に水を上げている時など、父や親友の存在を感じることが出来ます。吹く風の中に、それに揺れる木々の動きの中に、そして明るい陽射しの中に感じます。錯覚だと言われれば、そうかも知れません。しかし私にとっては極めて実体のある感覚なのです。その存在を感じるたびに、何となくほっとし、嬉しくなります。これからはひょっとしたらMさんもその仲間に入るかも知れません。 迷信、錯覚などと笑われるかも知れません。しかし例えば100年前にジェット機で空を飛ぶことや携帯電話で世界のどこかにいる人と話したり出来ることを話したら、同じように笑われ、信じて貰えなかったでしょう。最近、いろんな物理学上での発見が続いています。まだ完全に実証はされていませんが、光より早いニュートリノの存在は長年近代物理学の基礎だったアインシュタインの相対性理論を越え、新しい宇宙意識と現代科学の見直しを迫るかも知れません。 この地球上には重力や電磁力など四つの種類の力が作用しているそうです。ところが最近、五番目の力もあるのではないかと、研究が進んでいます。もしそれが証明されたら、ここでも今までの私たちの知識は修正を求められます。現在では非科学的だと一笑されている死後の魂の存在や、それと生者の魂とのコミュニケーションも、100年後には今日のジェット機や携帯電話と同じように極めて一般的な常識となっているのかも知れません。 そんなことを思わせた昨夜のMさんの葬儀でした。そんな事を思っていたら、亡くなった父や母や姉や娘や祖父・祖母たちに加え、伯父・叔父、伯母・叔母などの顔を久し振りに思い出しました。子供の頃から青年時代まで、色々お世話になったなーと今更ながら感謝の思いを持ちました。思い出してくれる人がいる限り、死者は生き続けるのかも知れません。歴史 上の人たちでさえ、その著書などで彼らの心を感じることも出来るのですから。(終り) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.09.28 04:43:02
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