|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「身代わりの十字架」
甲斐慎一郎 イザヤ書53章 イザヤ書の53章は、キリストの受難の時から数えて約700年 以上も前に預言されたものです。しかし私たちがこの章を読む時、 イザヤはキリストの十字架の下で、これを書いたのではないかと思 うほど、実に鮮やかに贖いの意義を私たちに教えています。 このキリストの贖い、すなわちキリストが私たちの罪の身代わり となって十字架の上で死なれ、私たちの罪を赦してくださるという のは、私たちに何を教えているのでしょうか。身代わりの十字架と いう観点から、次のような3つのことを学ぶことができます。 一、神の義の必要性 この章には2回、キリストが私たちの罪のために打たれたことが、 はっきりと記されています。 ◇「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎 のために砕 かれた」(5節)。 ◇「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ」(8節)。 これは何と恐れ多いことでしょうか。しかしそれ以上に何と厳粛 なことでしょうか。神は罪人を救うために、罪のない神のひとり子 イエス・キリストを私たちの身代わりに罰せられたのです。これは 「ご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、ま た、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(ローマ 3章26節)。罪は、ただ見のがしにして赦すことは決してできない からです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに神の義の必要性を教え ています。罪人である私たちが神の前に義と認められるためには、 キリストの身代わりの刑罰が必要だったのであり、これなしには神 の義を現すことができなかったのです。 二、神の愛の重要性 さらにこの章には3回、キリストが私たちの罪を背負ったことが 記されています。 ◇「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(6節)。 ◇「彼らの咎を彼がになう」(11節)。 ◇「彼は多くの人の罪を負い」(12節)。 人間にとって最も苦しく辛いことは何でしょうか。無実の罪を負 わされたり、濡れ衣を着せられたりすることではないでしょうか。 対人関係の問題の根本は、このことであり、これは通常、誤解とか 不当な非難とか中傷という形をとって表われます。キリストは、私 たちに対する愛のゆえに無実の罪を負い、誤解や不当な非難や中傷 をも(3、4節)、喜んで受けてくださったのです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに神の愛の重要性を教え ています。神が罪人である私たちを愛されたことは、キリストが私 たちのために無実の罪を負い、誤解や不当な非難や中傷をも喜んで 受けてくださったということであり、これなしには神の愛を現すこ とはできなかったのです。 三、結実の必然性 最後にこの章には3回、罪人の救いという結実があったことを教 えています。 ◇「彼は末長く、子孫を見る」(10節)。 ◇「多くの人を義とし」(11節)。 ◇「多くの人々を彼に分け与え」(12節)。 このためにキリストは「自分のいのちを罪過のためのいけにえ」 (10節)とされたのであり、しかも「彼は、自分のいのちの激しい 苦しみのあとを見て、満足」(11節)されたのです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに結実の必然性を教えて います。神は、キリストをいけにえとされたので、罪人である私た ちは罪を赦されて救われることができるのです。そのように私たち も神と人のために自分をささげて、犠牲にする時、豊かな実を結ぶ ことができるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.17 11:37:27
コメント(0) | コメントを書く |