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「個人の尊厳の自覚」
甲斐慎一郎 マタイの福音書10章29~31節 現代のように人口が非常に多くなり、人々が大都会に集まって来 るようになると、多くの人々は、社会とか大衆また団体というもの を重要視するようになってきます。 そのためにひとりの人間の存在がますます小さなものとなり、個 人というものが失われてしまいます。ですから私たちは、社会が大 きくなればなるほど、ますます個人に目を向け、個人の尊さを自覚 しなければなりません。そうしなければ、真の人間らしさが失われ、 人格の崩壊という最悪の事態を招いてしまうことになるからです。 一、個人の「存在の価値」を自覚すること 私たちは、個人の存在の価値というものを自覚していませんと、 数え切れないほど多くの人々に圧倒されて、「どうせ自分など、い てもいなくても同じだ。自分が何をしようとも、この社会には関係 がない」と思うようにならないでしょうか。人間は、個人の存在の 価値を見失うと、無責任になってしまうのです。 イエスは「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」 と言われました(31節)。ダビデは、「人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょ う。あなたがこれを顧みられるとは」と(詩篇8篇4節)、広大無 辺な大宇宙を造られた偉大な神が、小さな自分にも心を留めて顧み てくださることに驚嘆しています。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、それゆえ責任をもっ て生きていかなければならないということを自覚する時、神への恐 れと信仰が芽生えてくるのです。 二、個人の「存在の意義」を自覚すること 私たちは、個人の存在の意義というものを自覚していませんと、 私たちの周囲に起きる様々な苦難や困難に敗北して、「なぜ自分だ けがこんなに苦しみに会うのか。何だかわけが分からなくなり、何 もかもいやになってしまった」と思うようにならないでしょうか。 人間は、個人の存在の意義を見失うと、失望落胆して無気力になっ てしまうのです。 主イエスは「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなし には地に落ちることはありません」と言われました(29節)。まし て多くの雀よりもすぐれた人間と、その周囲に起きる出来事に対し て、神は雀以下の配慮しかしてくださらないことがあるでしょうか。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、周囲に起きる苦難や 困難も、決して無意味ではなく、それらは神が個人個人を造り上げ るために最高の知恵と愛の配慮をもって送られていることを自覚す る時、希望に満ち、気力にあふれてくるのです。 三、個人の「存在の目的」を自覚すること 私たちは、個人の存在の目的というものを自覚していませんと、 多くの人たちの存在が煩わしくなって、「他人なんかどうなっても かまわない。自分さえ良ければよいのだ」と思うようにならないで しょうか。人間は、個人の存在の目的を見失うと、自己中心になり、 隣人に対して全く無関心になってしまうのです。 イエスは「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」 と言われました(30節)。神は、ひとりびとりを特別な関心をもっ て愛してくださいます。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊 い。わたしはあなたを愛している」と仰せられました(イザヤ43 章4節)。私たちは、ひとりびとりの人間が神の目には「キリスト が代わりに死んでくださったほど」に尊い愛の対象であり(ローマ 14章15節)、個人個人の生涯には、深い神のご計画と目的がある ことを自覚する時(第一コリント2章9節)、隣人に対する無関心 が取り除かれて、愛をもって接することができるようになるのです。 私たちは、「個人の存在の価値」と「個人の存在の意義」と「個 人の存在の目的」をどれだけ自覚しているでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.12 21:47:25
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