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東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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2006.10.27
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カテゴリ:カテゴリ未分類
「神のことばへの責務とそれに伴う特権」 
                     甲斐慎一郎
                     列王記、第二、22、23章

 「みことばを……ただ聞くだけの者であってはいけません。……
みことばを、すなおに受け入れなさい。……みことばを実行する人
になりなさい」(ヤコブ1章21、22節)。

 宗教改革より以前の時代は、聖書の数も少なかっただけでなく、
聖書を解釈する権威が教会にあったので、聖書は民衆の手に届かな
いところにありました。それに比べると私たちは、いつでもどこで
も聖書を手にして、自由に読むことができます。しかし特権が大き
ければ大きいほど責任も大きくなります。

 一、神のことばを聞く責務とそれに伴う特権

 「シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のこと
ばを聞いた」(22章10、11節)。

 神のことばへの責務とそれに伴う特権の第一は、神のことばを聞
くことです。これは肉体の耳で聞くことではなく、心で聞くこと、
すなわち私の心に語りかける神の声を聞くことです。

 神のことばを聞く方法が3つあります。

 1.第一は聖書拝読です。私たちは、神の語りかけを聞くために
書を読まなければなりません。

 2.第二は集会出席です。私たちは、集会に出席することによっ
て最も容易に神の語りかけを聞くことができます。ですから聖書を
読まず、集会に出席しないことは、神のことばを聞く責務を果たし
ていないことです。

 3.第三は苦難や試練に会うことです。私たちは、苦難や試練を
通して神の語りかけを聞くことができます(詩篇119篇67、71
節)。れは、聖書を読み、集会に出席するだけでは、十分に神の語
りかけを聞くことができない人に与えられる場合と、聖書を読まず、
集会に出席しない人が、神の計り知れない愛のゆえに神の語りかけ
を聞く最後の機会として与えられる場合とがあります。

 そしてこのように神のことばを聞くのは、「主のみこころを求め」
て、それを知るためです(22章13節)。

 二、神のことばを信じる責務とそれに伴う特権

 「わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前に
へりくだり」(22章19節)。

 神のことばへの責務とそれに伴う特権の第二は、神のことばを信
じることです。私たちが神のことばを聞くのは、それを信じて(ロ
ーマ10章17節)、罪をはじめ様々な問題からの救いを体験するた
めです。

 私たちが神のことばを信じなければならない理由の一つは、神の
ことばは必ず成就するからです。実に350年以上も前に語った神
の人の預言は(第一列王記13章2節)、ヨシヤの宗教改革におい
て成就しました(23章16節)。まさに「時至らば必ず成就すべき
わが言葉」(ルカ1章20節、文語訳)と記されている通りです。神
のことばは、信じようが信じまいが必ず成就します。すなわち信じ
る者には神のことばの通りにすばらしいことが起こり、信じない者
には神のことばの通りに恐ろしいことが起こるのです。

 三、神のことばを実行する責務とそれに伴う特権

 「彼は……契約のことばをみな、彼らに読み聞かせた」(23章
2節)。

 神のことばへの責務とそれに伴う特権の第三は、神のことばを実
行することです。ヨシヤ王は、聖書を民に読み聞かせた後、偶像の
破壊と過越の祭りを行っています。これを私たちに当てはめるなら
ば、罪を徹底的に始末し、十字架の救いを感謝する生活を送ること
です。

 神のことばを信じるなら、必ず神のことばを実行します。神のこ
とばを信じた人は、罪を徹底的に始末し、十字架の救いによって救
われたことをあかしするようになるでしょう。しかし自分は、良い
行動や生活が伴わないので、救われたことをあかしすることができ
ないと言ってはなりません。救われたことをあかしすることが信仰
の告白となって、良い行動と生活が伴うようになるからです。救わ
れたことをあかしすることは、私たちが信じて体験したことの実践
なのです。

 実に私たちの日々の歩みと永遠の運命は、神のことばをほんとう
に聞いているか、信じているか、実行しているかにかかっているの
です。





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Last updated  2006.11.12 16:48:02
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