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「あなたの心を見守れ(7)善悪の規準」
甲斐慎一郎 申命記、12章25~28節 聖書は、私たちに「善悪の規準」とともに、それを守ることがで きる道を教えています。 一、善悪の規準がなければ、民はほしいままにふるまい、暗 黒の世界になる 箴言の著者は、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と 記しています(29章18節)。この「幻」は、文語訳は黙示(啓示)、 口語訳は預言と訳し、同じ節の並行文は、「律法を守る者は幸いで ある」と書かれているので、「律法」であり、「神のことば」です。 ダビデは、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」 と述べていますが(詩篇11篇3節)、この「拠り所」は、「正義 と律法の基本的原則」(キッセーン)です。 善悪の規準は、一般的には「律法」であり、これがなければ、民 はほしいままにふるまい、暗黒の世界になってしまうのです。 二、善悪の規準は、人の目ではなく、神の目であり、それは 神の律法(ことば)である 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残 虐が出来事が詳細に記されていますが、聖書は、このようになった 原因は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」 からであると教えています(17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起 きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にある のではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわ ち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、そ の善悪を決める規準が何かということです。 聖書は、「あなたがたは主が正しいと見られることを行わなけれ ばならない」(申命記12章25節)と善悪の規準は神の目、すなわ ち神の律法であると教えています。 人間は、悪いことをする時、必ずしも悪いと思ってしているので はなく、かえって正しいと思い、正しいと信じて、悪いことをして いるのです。人は、主が正しいと見えることを行わない限り、「自 分の目に正しいと見えることを行」い、それが神の目に悪いことを していることになるのです。 三、善悪の規準は、神の律法(ことば)であり、心に記され て、行うことができる ある人たちは、「律法」というと、「信仰」に対立するものとし て、あたかも悪であるかのように考えていますが、決してそうでは ありません。確かに聖書が教えている救いは、「律法による救い」 ではなく、「信仰による救い」です。しかしパウロは「私たちは信 仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそん なことはありません。かえって律法を確立することになるのです」 と明白に述べています(ローマ3章31節)。 「律法」は、神のみこころを教える「神のことば」にほかなりま せん。主が「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一 つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)と教えられたように、 私たちは、神のことばによって生きるのです。 それでは、どうすれば律法を確立することができるのでしょうか。 「愛は律法を全うします」とあるように、律法を全うするものは愛 です(ローマ13章10節)。そして「信仰によって……御霊を受け」、 「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ ている」とあるように、真の愛は、信仰によって受ける御霊によっ て与えられます(ガラテヤ3章14節、ローマ5章5節)。これこそ エレミヤによって預言された「わたしは、わたしの律法を彼らの思 いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ということばの意味であり、 その成就です(ヘブル8章10節)。 パウロは、「みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口 にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」 という申命記のことば(30章14節)を引用し、「信仰のことば」 (ローマ10章8節)である福音は、だれの手にも届く身近な現実 の中において説かれ、信仰によってだれでも到達することができる と教えているのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの 「説教要約 37」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメ ントを書くことができないので、順次、転載します)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.06.10 00:22:11
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