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「天の御国のたとえ(4)」
甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章44~46節 イエスは、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」と 言われ、「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のような ものです」とも言われました(44、45節)。 「弟子たちは、種蒔きのたとえにおいて、蒔かれた種の中で四分 の三は実を結ばず、ただ四分の一だけが実を結んだことを学び、毒 麦のたとえにおいては、実を結んだと見える麦の中に毒麦が混じっ ていることを学びました。それでイエスは、弟子たちが失望しない ように、からし種とパン種のたとえを語り、確かにその始めは小さ くても、その終わりは、大樹のようにその枝を全世界に広げ、パン 種のようにその感化は全世界に及ぶことを教えられたのです」(ク リュソストムス)。 しかし人は、この大樹の陰に来ても、このパン種の感化を受けて も、それだけでは天の御国にはいることはできません。 主は、「畑に隠された宝」と「良い真珠を捜している商人」のた とえを通して、天の御国という最も値うちのある宝や真珠を見つけ た者は、持ち物を全部売り払ってそれを買うように、あらゆる犠牲 を払っても「それを個人的に自分のものとしなければならない」と 教えられたのです(R・C・トレンチ)。 一、畑に隠された宝――偶然に見つけた天の御国 このたとえは、「この世にあって望みもなく、神もない人」、す なわち「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」が(エペソ2章12、 1節)、ふとしたことから神とその救いを見いだし、大喜びで信じ、 何もかも捨てて神に従った人の姿を教えています。 このたとえの典型的な人は、サマリヤの女性です。彼女は、この 世をすべてとして永遠のことなど考えず、神への渇きもなく、信仰 には無関心でした。乱れた生活をしていたので、人目を避けて井戸 に来ました。 ところが彼女は、そこでイエスと出会い、イエスがメシヤである ことを知って、自分の水がめを置いて町へ行き、人々にあかしをし ました。これは、「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、 わたしをたずねない者に自分を現わした」と教えている聖書の言葉 の良い例です(ローマ10章20節)。 二、良い真珠を捜している商人――天の御国を捜し求めてい る人 このたとえは、「真理とは何か」、「永遠のいのちを得るために は、どうすればよいのか」と言って、救いを求め、ついに神とその 救いを見いだして信じ、すべてを捨てて神に従った人の姿を教えて います。 このたとえの典型的な人は、パウロです。彼は、「その熱心は教 会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるとこ ろのない者で」した(ピリピ3章6節)。 ところがパウロは、「キリスト・イエスを知っていることのすば らしさのゆえに」、自分「にとって得であったこのようなものをみ な……損と思うようになり」、「キリストのためにすべてのものを 捨て」ました(同3章8、7節)。これは、「神を求め……るなら、 神を見いだす」と教えている聖書の言葉の良い例です(使徒17章 27節)。 私たちが神とその救いを見いだしたのは、畑に隠された宝を偶然 に見つけた人のようでしょうか。それとも良い真珠を捜し求めて、 ついに見つけた商人のようでしょうか。前者は偶然に見え、後者は 努力の賜物に見えますが、すべては神の摂理による導きです。 どちらにしても私たちは、あらゆる犠牲を払って最も値うちのあ る宝や真珠を買うように、天の御国を自分のものとしなければなら ないのです。 拙著「キリストの生涯の学び」62「天の御国のたとえ(4)」より転載 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.28 00:13:51
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