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「神の悔いと人の悔い」
甲斐慎一郎 サムエル記、第一、15章 「わたし(神)はサウルを王に任じたことを悔いる」(11節)。 「この方(神)は人間ではないので、悔いることがない」(29 節)。 聖書には、だれにでも分かる明白な真理が述べられていますが、 ときどき理解に苦しむ矛盾した言葉が記されています。冒頭に掲げ た言葉は、その中の一つです。 「人の悔い」に関しては、理解することができますが、「神の悔 い」に関しては、どのように考えればよいのでしょうか。 それで「神の悔い」と「人の悔い」について、また両者の関係に ついて聖書から学んでみましょう。 一、神の悔いについて 「神の悔い」に関して聖書の言葉は、「悔いる」(肯定形)と 「悔いることがない」(否定形)という互いに矛盾した二つのこと を教えています。 新改訳聖書においては、「悔いる」という肯定形の場合は、ほと んど「思い直す」(エレミヤ18章8、10節、ヨエル2章13、14節、 アモス7章3、6節、ヨナ3章9、10節他)と訳されているのに対 して、「悔いることがない」という否定形の場合は、そのまま訳さ れています(民数記23章19節)。 このようなことから「神の悔い」は、 ◇「悔いる」という肯定形の場合は「思い直す」という意味です。 ◇「悔いることがない」という否定形の場合は、「変わることが ない」(マラキ3章6節)という意味です。 二、人の悔いについて 「人の悔い」に関して聖書の言葉は、「後悔」(マタイ27章3 節)と「悔い改め」(マタイ3章2節)を教えています。両者の違 いを分かりやすく述べるなら、次のようになるでしょう。 ◇「後悔」が罪の結果を悲しむことであるのに対して、「悔い改 め」は、罪そのものを悲しむことです。 ◇「後悔」が後ろを振り向いてくよくよすることであるのに対し て、「悔い改め」は、前向きに神と真理の方へ転回することです。 ◇「後悔」が必ずしも罪から離れるとは限らず、また神とか信仰 に関係がないのに対して、「悔い改め」は、きっぱりと罪から離れ て、ただ神にのみ着くことです。 罪を犯したダビデ王とペテロは、真実な悔い改めをして救われま したが、サウル王とイスカリオテ・ユダは、罪を犯して後悔してい ますが、悔い改めをしなかったので、滅ぼされたのです。 三、神の悔いと人の悔いの関係について 神が「思い直す」方であるとともに、「変わることがない」方で あるという矛盾は、どのように説明することができるでしょうか。 このことを分かりやすく述べるために「(聖霊の)風のたとえ」を 考えてみましょう。 ここに神に向かって強い風が吹いている場合、神に顔を向けて神 に近づく人には、その風は順風になります(聖霊に導かれます)が、 神に背を向けて神から遠ざかる人には、その風は逆風になります (聖霊に逆らいます)。 神に向かって常に一定方向の風が吹いているように、神は少しも 「変わることがない」方です。しかし私たちが向きを変えるなら、 その風向きが変わるように(しかし実際は変わっていませんが)、 私たちの目には、神が「思い直す」方であるかのように見えるので す。 「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、 わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。……もし、そ れがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わ たしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す」と神は仰せ られるのです(エレミヤ18章8、10節)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.01.21 00:53:09
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