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「十二使徒への訓戒(2)」
甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章16~23節 イエスは、十二使徒への訓戒の第二回目として、彼らの「あるべ き姿」を教えられました。使徒たちが世の人々の中に遣わされるの は、狼の中に羊が送り出されるようなもので、非常に危険なことで す。ですから、彼らは、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおで」 なければなりませんでした(16節)。 これは、世の人々の中にあっては、「賢明さ」と「純粋さ」を兼 ね備えていなければならないことを教えています。なぜなら人は、 賢明さだけを要求されると狡猾で不純になる傾向があり、反対に純 粋さだけを求められると単純で愚かになる傾向があるからです。 しかし、なぜ使徒たちによる伝道は、狼の中に羊が送り出される ような危険なものなのでしょうか。どうして彼らは、議会(法廷) に引き渡されたり、会堂でむち打たれたり、また肉親に裏切られた り、死に渡されたりするのでしょうか(17、21節)。 キリスト教の伝道は、すばらしい福音の説教を語り、その福音に よって救われたあかしをし、信じる者に与えられる聖霊によって愛 の行いと奉仕をするだけでは、不十分なのでしょうか。決してそう ではありません。 神は、使徒たちの語る説教やあかしの言葉、また行いや奉仕が、 決して口先や見せかけではなく、真実なものであることをあかしす るために、これらの苦難が彼らの身に降りかかることをあえて許さ れるのです。 それでは、これらの苦難の中で、彼らの持っている信仰や救いが、 決して口先や見せかけではなく、本当で真実なものであることをあ かしするものは、何でしょうか。イエスは、3つのことを語ってお られます。 一、苦難の中における無言のふるまいによってあかしする (17、18節) 使徒たちは「キリストのゆえに投獄され」たり、法廷に引き渡さ れたり、会堂でむち打たれたりして、「義のために苦しむこと」が あります(ピリピ1章13節、第一ペテロ3章14節)。 しかし、そのような中で使徒たちが、「悪をもって悪に報いず、 侮辱をもって侮辱に報いず」、「心の中でキリストを主としてあが め」る時、世の人々は、彼らの「神を恐れかしこむ清い生き方」と、 「無言のふるまいによって、神のものとされるようになる」のです (第一ペテロ3章9、15、2、1節)。 二、苦難の中において語る言葉によってあかしする (18~20節) 使徒たちは、法廷に引き渡されたり、総督たちや王たちの前に連 れて行かれたりした時、「どのように話そうか、何を話そうかと心 配する」必要はありませんでした(19節)。 なぜなら、話すのは使徒たちではなく、彼らのうちにあって話さ れる父の御霊だからです。このように「知恵と御霊によって語」る 言葉は真実で力強く、だれも「それに対抗すること」はできません (使徒6章10節)。 三、家族の愛のきずなよりも強い神の愛のきずなによって あかしする(21、22節) この世において、血を分けた家族の者に理解されないばかりか、 憎まれたり、恨まれたり、また迫害されたり、裏切られたりするほ どつらく、悲しいことはありません。 使徒たちが家族の者に迫害されたり、裏切られたり、果ては死に 渡されたりしても、神への愛のゆえに「死に至るまで忠実であ」る 時(黙示録2章10節)、人々は、家族への愛よりも大切で人を動か す神への愛というものがあり、家族の愛のきずなよりも強い神の愛 のきずながあることを知るようになります。 このようにして神は、福音が真理であることをあかしされるので す。 拙著「キリストの生涯の学び」72「十二使徒への訓戒(2)」より転載 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.31 00:35:13
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