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「いのちのパン(2)」
甲斐慎一郎 ヨハネ6章32~59節 イエスは、「いのちのパン」の説教をされました。このイエスの 説教を学ぶ前に、「パン」について考えてみましょう。 人は、「霊と心とからだ」という三つの要素から成り立っていま すが、それぞれに「食物」すなわち「パン」を必要としています。 1.「からだ」のためには、肉体の食物、すなわち物質のパンが 必要です。 2.「心」のためには、心の食物、すなわち精神的なパン(心の 糧)が必要です。 これには、広くて豊かな知識や教養を身につけること(知性的な もの)と、喜びを求めて情緒や情操を豊かにすること(感情的なも の)と、意欲的に行動し、様々な欲望を満たすこと(意志的なもの) の三つがあります。 3.「霊」のためには、霊の食物、すなわち霊的なパン(いのち のパン)が必要です。 人が罪を犯すのは、心が悪いからですが、それは心の奥にある霊 が死んでいるからだと聖書は教えています(エペソ2章1節)。で すから人が罪から救われるためには、心の糧を食べているだけでは 不十分であり、霊的な食物である「いのちのパン」を食べて、死ん でいた霊が生き返らなければなりません。 一、イエスは、天から下って来られたいのちのパンです ――受肉のイエス 群衆は、イエスを信じるために、モーセが彼らの先祖に天からの パンであるマナを降らせたように、イエスに天からのしるしを求め ました(30、31節)。これに対してイエスは、「わたしは、天から 下って来た生けるパンです」と言われました(51節)。 「天から下って来た」とは(33、38、41、42、50、51、58節)、 「父のみもとから来られたひとり子」の神が、「人となって、私た ちの間に住まわれた」ということを教えています(1章14節)。し かしユダヤ人たちは「あれはヨセフの子……ではないか」とつぶや き(42節)、父のみもとから来られたイエスを信じませんでした。 二、イエスは、私たちが食べるためのいのちのパンです ――十字架のイエス イエスは、いのちのパンである「わたしを食べる」ということに ついて8回も語られました(50、51、52、53、54、56、57、58節)。 イエスを食べるとは、イエスを信じるということです(47、54節)。 ところがユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を 私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに議 論し合いました(52節)。 「食べること、飲むことの比喩は、一つの身体が他の身体によっ て同化されること、食べられるものから食べる者へ、生命が移され る方法を表現し得る最上の象徴です」(M・C・テニイ)。これは、 私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流された十字架のイエスを教 えています(マタイ26章26~28節)。 三、いのちのパンを食べる者は、永遠の生命を持つのです ――救われたキリスト者 イエスは、「わたしは……生けるパンです。だれでもこのパンを 食べるなら、永遠に生きます」と言われました(51節)。いのちの パンを食べて永遠の生命を持つとは、次のようなすばらしい4つの ことを意味しています。 1.信じた時に与えられる生命(53節)――聖霊によって新生す る霊的な復活です。 2.死ぬまでの間、イエスによって生きる生命(57節)――いの ちに満ち溢れた歩みです。 3.終わりの日に、よみがえる生命(39、40、44、54節)――死 後の肉体の復活です。 4.復活の後、永遠に生きる生命(51、58節)――神とともに永 遠に生きるのです。 これが救われたキリスト者の姿です。 拙著「キリストの生涯の学び」79「いのちのパン(2)」より転載 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.29 10:56:31
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