「エリシャの働き(2)」
甲斐慎一郎
列王記第二、5章
「さてイスラエルは、再び大敵であるアラムと相接触することに
なりましたが、この度の手段は戦争ではなく平和であることは非常
に注目すべきことです。そしてこの平和的な勝利が王と民とに教え
ていることは、主はどれほど容易に彼らの敵の心を変えてくださる
か、またその徳を現すことによって彼らをイスラエルの信者の仲間
とし、イスラエルの礼拝の仲間としてくださるかということです。
この点においてこの物語は、この部分のほかの事件と同様に特に新
約時代を予表しています」(A・イーダーシャイム)。
一、皮膚病を直してもらうために預言者エリシャのところに
来たナアマン(1~9節)
かつてアラムが略奪に出た時、イスラエルの地から一人の若い娘
を捕らえて来ていました(2節)。このイスラエル人の一家には大
きな悲しみがありました。しかし彼女がエリシャのことを彼らに伝
えたことによってアラムの将軍が霊肉ともに癒されただけでなく(3
~19節)、イスラエルに生ける神がおられ、その「神はユダヤ人だ
けの神」でなく、「異邦人にとっても神」である(ローマ3章29節)
ことを彼らに教えるきっかけとなりました。
アラムの王の将軍ナアマンは、この若い娘からサマリヤに皮膚病
を直せる預言者がいるということを聞くと、矢も楯もたまらなくな
ってアラムの王に願い出ました(3、4節)。
アラムの王がイスラエルの王(恐らくヨラム)に手紙を書いてく
れたので、ナアマンは高価な贈り物を持って出かけました(5節)。
ところがヨラムは手紙を読むと、難癖をつられたと誤解しました(7
節)。アラムの王は、その方法がまちがっていたとしても神の助け
を求めましたが、ヨラムは求めようとはしませんでした。ヨラムは
宗教を持っていましたが、これを活用せず、最も必要な時にかえっ
てこれを無視したのです。
二、エリシャの命に従って皮膚病が癒され、喜んで帰途につ
いたナアマン(10~19節)
ナアマンはエリシャの家に行きました。ところがエリシャは家か
ら出て来ないだけでなく、使いをやって、ヨルダン川へ行って七た
び身を洗うように言いました(10節)。
ナアマンは、勢力と財力だけでなく、名誉と地位のある誇り高い
人であり(1、5節)、特に病が癒される方法に関しては固定観念
にとらわれていたので(11節)、エリシャの無礼な態度に自尊心を
いたく傷つけられ、憤慨して帰途につきました(12節)。
エリシャがこのような態度をとったのは、ナアマンに大切なこと
を教えるためです。すなわちエリシャは、ナアマンがいやされるの
は、勢力や財力また名誉や地位があるからではなく、また神の助け
は、預言者から固有の力が出るからではないことを教える必要があ
りました。後者に関しては異邦人に教えなければならない最も重要
なことです。
ナアマンは、しもべたちの進言をいれて、へりくだり、単純な信
仰によってエリシャの言ったとおりにした時、皮膚病が治るという
肉体的な救いだけでなく、イスラエルの真の神を知り、偶像の神々
への礼拝を退けるという霊的な救いをも受けたのです(13~18節)。
三、ナアマンの跡を追って贈り物をだまし取り、皮膚病にか
かったゲハジ(20~27節)
高潔なエリシャは、ナアマンの高価な贈り物を受け取らず、彼を
帰しました(16、19節)。しかし貪欲なゲハジは、ナアマンの跡を
追い、彼から贈り物をだまし取ると、家の中にしまい込み、エリシ
ャに問い詰められても知らぬ顔をしていました(20~26節)。その
結果、ナアマンの皮膚病は、ゲハジとその子孫とにまといつくよう
になりました(27節)。
「アラム人のナアマンは、その心と霊においてイスラエル人とな
り、イスラエルの水で皮膚病がいやされました。これに反してイス
ラエル人のゲハジは、その心と霊において異邦人となり、自分も家
族もアラム人の皮膚病をわずらうようになりました。......こうして
ナアマンもゲハジも自分の蒔いたものを刈り取ったのです」(A・
イーダーシャイム)。
拙著「ソロモンと王たちの生涯」27「エリシャの働きき(2)」より転載