「きよめの体験(2)」
甲斐慎一郎
使徒の働き、1章1~11節
二、きよめられることの意義
それでは、罪がきよめられるとは、どのようなことなのでしょう
か。
1.私たちに聖霊を与え、罪をきよめるために十字架にかか
ってくださったキリスト
イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天は、私たちに聖霊を
お注ぎになるため「御父から約束された聖霊を受け」る準備であり、
条件でした(2章33節)。イエス・キリストは、この箇所において
三回も聖霊を与えるという約束をしておられます(4、5、8節)。
しかし弟子たちは、地上の王国を夢みて、イスラエルの国の再興の
ことを質問しています(6節)。その時、イエスは、今すぐ知らな
くてもよいことと、緊急に知らなければならないことを教えられま
した。後者は、聖霊が与えられることです。
イエス・キリストは、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、天
に上って「すぐれて高い所の大能者(神)の右の座に着かれ」たと
聖書は教えています(ヘブル1章3節)。言い換えればイエスの昇
天は、贖いのわざの完成です。そして聖霊の降臨は、その結果です。
イエスが昇天されなかったならば、聖霊の降臨はなかったのです
(ヨハネ16章7節)。
弟子たちは、目に見える頼みの綱であった主が取り去られたので、
約束の聖霊を待ち望む以外になすすべがなかったのですが、これは
私たちにとっても同じです。だれが一番偉いのかと争っていた弟子
たちが、心を一つにして祈りに専念することができたのは、聖霊が
必要であると深く自覚していたからです。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた時、聖霊が弟
子たちの上に臨まれました(1、4節)。この時、ペテロがエルサ
レム会議において述べているように、「神は、私たちに与えられた
と同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
私たち(ユダヤ人)と彼ら(異邦人)とに何の差別もつけず、彼ら
の心を信仰によってきよめてくださったのです」(15章8、9節)。
聖書は、「御霊に属する人」と「肉に属する人」について教えて
います(第一コリント3章1~3節)。「御霊に属する人」とは、
きよめられた人、「肉に属する人」とは、ねたみや争いがある、き
よめられていない人です。
2.キリストの救いには、罪の赦しと罪のきよめがあります。
ヨハネの手紙、第一の1章には、二種類のことが記されています。
(1)二種類の罪--罪の行為と罪の性質
「罪を犯し」(10節)--罪の行為
「罪はない」(8節)--罪の性質
(2)二種類の条件--悔い改めと全き献身
「罪を言い表す」(9節)--悔い改め
「光の中を歩」む(7節)--全き献身
(3)二種類の約束--罪の赦しと罪のきよめ
「その罪を赦し」(9節)--罪の赦し
「罪から......きよめ」(7節)--罪のきよめ
それでは、罪をきよめられた人とは、どのような人なのでしょう
か。
「きよめられた人とは『キリストの心を心と』し(ビリピ2章5
節、文語訳)、『キリストが歩まれたように歩』む人(第一ヨハネ
2章6節)、『手がきよく、心がきよらかな者』(詩篇24篇4節)、
『いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ』られた人(第二コリン
ト7章1節)、その中につまずきがなく、罪を犯さない人を意味す
る。これをもう少し具体的に述べるなら、私たちは『きよめられた
人』という聖書的表現は、『あなたがたは、すべての汚れからきよ
められる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ』
(エゼキエル36章25節)という神の誠実な言葉がそのうちに成就
された人を言うと理解する。従って神が『霊、たましい、からだ』
を『全く聖なるもの』(第一テサロニケ5章23節)とされた人とは
『神が光の中におられるように......光の中を歩』んでいる人、『御
子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ』た人であると理解
する(第一ヨハネ1章7節)」(ジョン・ウェスレー著『キリスト者
の完全』43、44頁 )。