「人間関係の教え(1) 謙遜について」
甲斐慎一郎
マタイの福音書、18章1~14節
マタイの福音書の5章から7章までの山上の説教が「神との正し
い関係」について教えているのに対して、この18章は「人との正
しい関係」について教えています。この章には次のような3つのこ
とが記されています。
◇人間関係の教え(1)--謙遜について
◇人間関係の教え(2)--譴責について
◇人間関係の教え(3)--赦しについて
この3つのものは順序が大切です。正しい人間関係の基礎は謙遜
であり、これがなければ正しい人間関係を持つことはできません。
この謙虚さがある時、譴責、すなわち悔い改めの勧告ができます。
そして最後に、私たちは、相手の人が悔い改めれば当然ですが、悔
い改めなくても赦さなければなりません。
ここには、何のために、またなぜ謙虚さが必要なのかということ
が記されています。
一、天の御国にはいるため(1~5節)
イエスは、「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決し
て天の御国には、はいれません」と言われました(3節)。「子ど
ものように」なるとは、「自分を低くする」こと、すなわち謙遜で
す(4節)。しかし、謙遜には、次のような3段階があります。
1.身を低くする謙遜--これは「出る杭は打たれる」ので、
「能ある鷹は爪をかくす」という謙虚な行動をとることです。
2.心の謙遜--これは、神の前に無一物であり、何の良いもの
も持っていないことを意識することです(黙示録3章17節)。
3.霊の謙遜--これは、神の前に返済不可能な罪という借金を
背負った債務者であることを認めて(24、25節)、救い主の必要を
意識することです。
この第三番目の人こそ、「心(原語は霊)の貧しい者」であり、
「天の御国はその人のもの」です(5章3節)。
二、人をつまずかせないため(6~10節)
イエスは、人をつまずかせることが、どんなに恐ろしいことであ
るかを語られましたが(6、7節)、それとともに自分自身が、ど
んな代価を払ってもつまずかないように教えられました(8、9節)。
「つまずく」という言葉には、次のような意味があります。
◇つまずき--罪に誘惑するもの。
◇つまずく--(自分が)罪を犯す。
◇つまずかせる--(人に)罪を犯させる。
イエスは「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないよ
うに気をつけなさい」と言われました(10節)。謙虚でなく、また
自分が罪を犯す(つまずく)人こそ、人に罪を犯させる(つまずか
せる)のです。
ですから私たちは、人をつまずかせないためにも、まず自分自身
が悔い改め、謙虚になって罪から救われ、どんな代価を払っても罪
を犯さない人にならなければなりません。
三、神のみこころであるから(12~14節)
イエスは、「迷い出た一匹の羊」のたとえを通して、「この小さ
い者たちのひとりが滅びることは、天にいます......父のみこころで
はありません」と教えられました(14節)。
ペテロは、その手紙において、「主は......ひとりでも滅びること
を望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるので
す」と述べています(第二ペテロ3章9節)。 神のみこころは、
私たちが謙虚になって罪を犯さず、また人に罪を犯させないことで
す。ですから私たちは、「人との正しい関係」を持つために、まず
「神との正しい関係」を持つことが必要なのです。
拙著「キリストの生涯の学び」92「人間関係の教え(1)」より転載