「神への信仰と意志」
甲斐慎一郎
ヨハネの福音書、7章10~53節
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この
教えが神から出たものか......がわかります」(17節)。
聖書は、私たちが正しく神を知り、とらえるために意志が大切で
あることを教えています。私たちは、神を正しく知り、とらえるた
めに、どうして意志が必要なのでしょうか。三つの面から考えてみ
たいと思います。
一、神を信じる意志について
私たちは、人格を持つ者--すなわち神と人間と天使と悪魔--
以外のものを知るためには、証拠があって証明されるなら、その人
の意志に関係なく、信じるも信じないもなく、ただ認めればよいの
です。
しかし人格を持つ者--すなわち知性と感情と意志を持つ者--
を知るためには、ただ認めるだけでは不十分であり、意志を働かせ
て信じなければなりません。このことを理解するために、次のよう
な例話が分かりやすいのではないでしょうか。
ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(ま
たは娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子
(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、
確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざ
るを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、
その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい
父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知る
ことはできません。
「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間も
また、知性と感情と意志とを持っている霊である」(キャンベル・
モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神
を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を
働かせて信じなければならないのです。
二、罪を悔い改める意志について
使徒パウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼
らを良くない思いに引き渡され......た」と記しています(ローマ1
章28節)。
多くの人たちが神を信じないのは、単に知性的に神を認められな
いからではなく、神を信じるなら、自分の悪い心と生活を悔い改め
なければならないという恐れから、意志的に神と信仰を拒んでいる
ということを知らなければなりません。
神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然
のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、
悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つこと
はできません。
私たちは、「真理に逆ら」ったり、「真理から耳をそむけ」たり
しているなら、「いつも学んではい」ても、「いつになっても真理
を知ること」ができないのです(第二テモテ3章7、8節、4章4
節)。
三、救いを信じる意志について
人類の始祖が堕落した時、人の意志は堕落し、すべてのことにお
いて神を中心とすべき意志が、自分を中心とする意志に変わってし
まいました。しかし神は、計り知れない恵みのゆえに、救いを信じ
ることができる意志を与えてくださいました。
キリストが盲人のバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」
と尋ねられた時、彼は「先生。目が見えるようになることです」
と答えました。これに対してキリストは「あなたの信仰があなたを
救ったのです」と言われました(マルコ10章51、52節)。
受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、
その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信
仰によってのみ、罪から救われ、心の目がはっきり見えるようにな
って、神を知ることができるようになるのです。