「神の国と神の義を求めなさい」
甲斐慎一郎
マタイの福音書、6章31~34節
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それ
に加えて、これらのものはすべて与えられます」(33節)。
「神の国」とは「われらの主イエス・キリストの父なる神が、あ
なたがたの心の中で統治してくださること」であり、「神の義」と
は「神が心の中で統治して下さっていることの結ぶ実である。それ
は、イエス・キリストを信じる信仰から流れ出てくる、神への愛と
全人類への愛である」(J・ウェスレー)。
一 新生(義化)を求めなさい
キリストは、宣教を開始された時、最初に「時が満ち、神の国は
近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え(マルコ1
章15節)、ニコデモに「人は、新しく生まれなければ、神の国を見
ることはできません」と言われました(ヨハネ3章3節)。
人が新しく生まれるためには、神と人に対して罪を犯していたこ
とを認め、その罪を心から悔い改めて、神に立ち返り、キリストが
私たちの罪のために死なれたことを信じることです。このようにす
る時、私たちは、罪が赦され、義と認められ、新しく生まれ変わり、
神の子どもとされ、神の国を見ることができるのです(使徒26章
18節)。
二 聖化を求めなさい
パウロは「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊に
よる喜びだからです」(ローマ14章17節)と述べていますが、義
と平和と聖霊による喜びは「神が心の中で統治して下さっているこ
との結ぶ実であ」り、これは、神が私たちを支配されることを拒む
罪が取り除かれなければ、不可能なことです。聖書は、「聖められ
ることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることがで
きません」(ヘブル12章15節)と教え、ヨハネの手紙第一の1章
には、罪がきよめられるために必要な三つのことが記されています。
1.二種類の罪--「罪を犯し」(10節)は罪の行為で、「罪は
ないと言う」(8節)のは罪の性質です。私たちは、罪を犯してき
たことを認めるだけでなく、「私のうちに住みついている罪」(ロ
ーマ7章17、20節)があることを素直に認めなければなりません。
2.二種類の条件--「罪を言い表す」(9節)は悔い改めで、
「光の中を歩」む(7節)は全き献身です。罪を悔い改めるだけで
なく、自我を全く神に明け渡すことが必要です。
3.二種類の約束--「その罪を赦し」(9節)は罪の赦しで、
「罪から......きよめ」(7節)は罪のきよめです。私たちは、キリス
トが私たちの罪をその身に負われたことを信じて、罪を赦されるだ
けでなく、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」
(7節)と信じるなら、聖霊によって罪がきよめられ、神の愛が心
に注がれるのです。
三 栄化を求めなさい
パウロは、「私たちの国籍は天(神の国)にあります。そこから
主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待
ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのでき
る御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだ
と同じ姿に変えてくださるのです」と述べています(ピリピ3章21
節)。これが栄化です。
この栄光にあずかるためにパウロは、「キリストとその復活の力
を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリスト
の死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達し
たいのです」と切なる願いを告白し(同3章10、11節)、また「キ
リストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている」とも
述べています(ローマ8章17節)。そしてペテロも自分のことを
「キリストの苦難の証人、またやがて現れる栄光にあずかる者」と
語っています(第一ペテロ5章1節)。「キリストは、必ず、その
ような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」(ルカ24章
26節)と言われましたが、私たちもキリストの苦しみにあずかるな
ら、キリストと栄光をともに受けることができるのです。