「神のことと人のこと」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。以下のURLをクリックすると見ることができます。
2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」
http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57447&dreamon=Y
「神のことと人のこと」
甲斐慎一郎
マタイの福音書、16章13~28節
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなた
は神のことを思わないで、人のことを思っている」(23節)。
冒頭の言葉は、ご自分の十字架の死と復活を預言されたキリスト
を、事もあろうに引き寄せて、いさめたペテロが、そのキリストか
ら受けた厳しい叱責の言葉です。聖書の中でサタンと呼ばれるほど
強い叱責の言葉は他になく、これは何と恐るべきことでしょうか。
しかし、それにもまして恐るべきことは、その叱責された理由が、
「神のことを思わないで、人のことを思っている」(23節)からで
あるということです。私たちは、どのような時に、「神のことを思
わないで、人のことを思っている」ことになるのでしょうか。
一、思想的な面--神の言葉と人の言葉のどちらを重んじる
か(13~17節)
人々はイエスについて、バプテスマのヨハネとかエリヤまたエレ
ミヤだとか言っていますが、ペテロは、神の啓示によって「あなた
は、生ける神の御子キリストです」と答えています(16節)。私た
ちが最も心を配らなければならないのは、神とその言葉です。
しかし多くの人々の最大の関心事は、人とその言葉です。彼らは、
人の意見はどうか、人の考えはどうか、人の思惑はどうか、あの人
は何と言ったか、この人は何と言うか、というような人の言葉ばか
り気にしています。
私たちは、人の心を見て常に正しい評価をされる神の言葉と、う
わべを見るために常に正しい評価をするとは限らない人の言葉のど
ちらを重んじるでしょうか。もし私たちが神の言葉を差し置いて、
人の言葉ばかり気にしているなら、それは神のことを思わないで、
人のことを思っているのです。
二、体験的な面--神の救いと人の救いのどちらを信じる
か(21節)
聖書は、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それ
から、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と教えています
(ルカ24章26節)。十字架こそ栄光に至る唯一の道であり、「十
字架なくして栄光なし(苦難なくして栄冠なし)」です。
私たちも救いにあずかり、神の栄光を受けるためには、罪を悔い
改め、十字架の贖いを信じなければなりません。しかし、その十字
架を避けて、ただ栄光だけを求めようとするのが人の考えであり、
サタンが誘惑するところです(マタイ4章8、9節)。
私たちは、罪を悔い改めて、キリストの十字架による贖いを信じ
て神から栄光を受ける神の救いと、ただ人間の努力によって人から
の栄光を勝ち取る人の救いのどちらを信じるでしょうか。もし私た
ちが、神が与えてくださる十字架による救いを退けて、ただ人の栄
光だけを求めるなら、それは神のことを思わないで、人のことを思
っているのです。
三、実践的な面--神の意志と人の意志のどちらを選ぶか
(24、25節)
この十字架による救いの体験を持ち続け、また信仰に成長してい
くために必要なことは、自己否定であり、十字架を負うことです。
聖書は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために
いのちを失う者は、それを見いだすのです」と教えています(25節)。
これに対して多くの人々は、自分を救うために、自分を主張し、
自分の考え、自分の意見、自分の意志を通すように言うでしょう。
しかしその行き着く所は死です。
私たちは、神の意志と自分の意志が対立した場合、いのちに至る
神の意志と、死に至る自分の意志のどちらを選ぶでしょうか。もし
私たちが神の意志を退けて、自分の意志を通すなら、それは神のこ
とを思わないで、人のことを思っているのです。
私たちは、思想(思い)において、体験において、実践において、
神のことと人のことのどちらを優先しているでしょうか。
甲斐慎一郎の著書→説教集
東京フリーメソジスト昭島キリスト教会