「ハンナの疑惑と信仰(1)」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。2015年3月4日放映「信仰に成長する秘訣(1)」
説教要約 1003 神への信仰と感情2
「ハンナの疑惑と信仰(1)」
甲斐慎一郎
サムエル記、第一、1章1~20節
信仰の試練を受けたハンナの姿から、真の信仰について学んでみ
ましょう。
一、疑惑と不信仰の相違
私たちが何かを信じるか信じないかという時、信じたいけれども
信じられないという心と、信じたくないという心があります。前者
は、真理を探求する「疑惑」で、知性の問題ですが、後者は、真理
を拒否する「不信仰」で、意志の問題です。
1.疑惑について
ある人は、信仰は何も疑わずに、ただ信じることであると思って
いますが、そうでしょうか。ある人が次のように述べています。
▽何も信じないことは不幸です。
▽しかし何でも信じることも不幸です。
▽信ずべきことを信じ、信ずべきでないことを信じないことこそ真
の幸いです。
聖書が教えている信仰は、まさにこれです。
信仰にとって最も大切なことは、何を信じるかという「信仰の対
象」です。しかし多くの日本人は、「鰯の頭も信心から」という言
葉に表されているように、何を信じるかという「信仰の対象」より
も、信じる心、すなわち「信心」が大切であると思っています。
それで、「信じることは善で、信じないことは悪である」と思っ
ている人もいます。しかしそれは、「服従は善で、不服従は悪であ
る」とか「従順は善で、不従順は悪である」というのが誤りである
ように、服従する相手が善であるか悪であるかによって善悪が決ま
るのであって、「服従」や「不服従」それ自体が善か悪かというこ
とはあり得ません。
そのように信仰も信じる対象が大切です。真の信仰は、偽りのも
の、非現実的なもの、欺瞞的なもの、空虚なもの、無価値なものを
疑って信ぜず、真実なもの、現実的なもの、不変の真理、実在する
もの、価値のあるものを信じることです。
ルー・ウォーレスは、アメリカの偉大な将軍であり、天才的な文
学者と言われました。彼は、過激な無神論者で、聖書と教会を撲滅
するために、キリスト教を抹殺する本を書こうとしました。それか
ら5年間、研究に没頭し、山のような資料に囲まれて執筆にとりか
かりました。ところがキリスト教撲滅論を書いているうちにキリス
トを見いだし、信仰を告白してキリスト者になりました。そしてキ
リストの時代を取り扱ったものとしては比類のない不朽の名作と言
われる「ベン・ハー」を書いたのです。
ルー・ウォーレスは、ベレヤのユダヤ人のように「はたしてその
とおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17章11、12節)結果、
それが真実なものであることが分かり、信仰にはいりました。しか
し疑惑の念を抱いたままなら、遅かれ早かれ、不信仰になってしま
うでしょう。不信仰にならないために疑惑を解くことは非常に大切
なことなのです。
2.不信仰について
主は、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、
この教えが神から出たものか……がわかります」と言われました
(ヨハネ7章17節)。真理を探求する意志があるなら、疑惑は晴れ
て、信じることができるようになります。しかし「神を知ろうとし
たがらない」なら(ローマ1章28節)、すなわち真理を探求する意
志がないなら、疑惑を解くことができる証拠を示されても、決して
信じないでしょう。これが不信仰です。
二、ハンナの心に生じた六つの疑惑
ハンナが置かれた境遇は、実に多難であり、様々な不利な条件に
満ちていました。
▽ハンナは、エルカナの二人の妻のうちの一人でした(2節)。
▽ペニンナには子どもがありましたが、ハンナには子どもがあり
ませんでした(2節)。
▽もう一人の妻ペニンナは、子どものないことで、ハンナをいじ
めました(6節)。
▽夫のエルカナは、人間的には善人でしたが、信仰的にはふがい
ない人でした(8節)。
▽祭司エリは、柔弱な人で、人の心を見抜く洞察力がありません
でした(13節)。
▽最も大きな試みは、胎を閉じておられるのが主であったという
ことです(5節)。
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