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「心の一新」 2018年6月10日 みことばに聞く インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みこ とばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章2節 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみ こころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完 全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変え なさい」(2節)。 一、心の一新の必要 なぜ私たちは「心の一新」が必要なのでしょうか。消極的な面は 「この世と調子を合わせ」ないためであり、積極的な面は「神のみ こころをわきまえ知るため」です。 パウロは、この世の人は「神を知っていながら、その神を神とし てあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その 無知な心は暗くな」るか、または「神を知ろうとしたがらないので、 神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはな らないことをするようにな」る、と鋭く指摘しています(ローマ1 章21、28節)。 ですから人間にとって最も大切なことは、「神のみこころ……を わきまえ知るために」「神を知る知識を増し加え」ることです(コ ロサイ1章10節)。それでペテロは、「キリストの恵みと知識にお いて成長しなさい」と勧めているのです(第一ペテロ3章18節)。 二、心の一新の意味 聖書は、人間は「霊、たましい、からだ」という三つの要素から 成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23、24節)。 たましい(ソウル)には、「知性の面での心(マインド)」と、 「感情の面での心(ハート)」と「意志の面での心(ウィル)」と いう三つの面があります。「心の一新」の「心」は、原語のギリシ ャ語は「ヌース」で、「肉の思い」(コロサイ2章18節)の「思い」 と同じことばです。英語の聖書は、「知性の面での心」を表す「マ インド」と訳されています。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら一瞬にし て罪が赦される救いを体験します。これが「霊の回心」です。しか し、それがどのようなことかということは、長い間、聖書を読んで 学ぶだけでなく、祈りつつ思い巡らして考え、聖霊に教えられなけ れば、理解することができません。これが「心(思い)の一新」で あり、「霊の回心」に対して「心(思い)の回心」と呼ばれるもの です。これは、一生の間、変えられ続けなければならないものです。 私たちは「霊の回心」をしたとしても、この「心(思い)の回心」 をしなければ、私たちの心には、神を知らない「世的な思い」また 「知性の腐った」(第二テモテ3章8節)「肉の思い」があり、そ の「肉の思いは死であり……肉の思いは神に対して反抗」し、「そ れは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」(ロー マ8章7節)。 三、心の一新の秘訣 「肉の思い」を持っている私たちは、「神の律法に服従できない ので」、ただ聖書を学び、神のことばを心にたくわえても「心(思 い)の回心」にはなりません。 それで神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエ ルの民と「新しい契約を結ぶ日が」来ることを約束されました(ヘ ブル8章8節)。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法 を与えるのではなく、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち 神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」こと です(同8章10節)。 神は、このことをキリストの十字架の死と復活による罪の贖いと その罪の贖いが成し遂げられたことによってもたらされる聖霊の降 臨によって成就されました。私たちが罪を悔い改めてキリストの十 字架の贖いを信じるなら、罪が赦されて聖霊が与えられますが(使 徒2章38節)、さらに「うちに住む罪」(ローマ7章12、20節)が キリストとともに十字架につけられるなら(ガラテヤ2章20節)、 罪がきよめられて聖霊に満たされます。この聖霊に満たされること こそ神の律法が心に記されることであり、その思いは「御霊による 思い」になります(ローマ8章6節)。これが「心(思い)の一新」 また「心(思い)の回心」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.06.12 19:04:52
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