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「人であるキリスト(1)その渇きについて」2018年12月2日
インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2013年5月22日放映「真の生きがい」 「人であるキリスト(1)その渇きについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救 うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと 願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7 節)。 人間は、肉体を持っているために、飢えや渇き、また疲れや痛み などという独特な不自由さや不便さがあります。人としてキリスト も罪を犯さなかったこと以外は、私たちと同じでした。 しかしこの(飢え)渇きと疲れと痛みは、肉体のみならず霊と心 にもあるものです。それで聖書から次のような三つのことを学んで みましょう。 ▽人であるキリスト(1)――その渇きについて ▽人であるキリスト(2)――その疲れについて ▽人であるキリスト(3)――その痛みについて まず渇きについて学んでみましょう。 一、渇きの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類 の渇きがあります。 1.肉体的な渇き――のどの渇きのことで、飢えも含めるならば 飲食欲のことです。 2.精神的な渇き――心の渇きのことで、これには三つのことが 含まれています。 (1)知識的な満足を求めること。 (2)感情的な満足を求めること。 (3)意志的な満足を求めること。 これを実際的に分かりやすく述べるなら、人に理解されたい、人 に喜ばれたい、自分の願いが叶えられたいという求めのことです。 3.霊的な渇き――神への渇きのことで、これは神の「みこころ を行ない、そのみわざを成し遂げ」たいという求めのことです(ヨ ハネ四章34節)。 二、キリストの渇き キリストは、十字架の上で「すべてのことが完了したのを知って ……『わたしは渇く』と言われた」(ヨハネ一九章28節)と聖書は 教えています。これは、肉体的なのどの渇きのことですが、なぜこ のような時に言われたのでしょうか。それは、十字架の上で私たち の罪をその身に負い、人類の罪を贖うという神のみわざを成し遂げ ている間は、肉体的な渇きも忘れていましたが、それが完了した時、 のどの渇きを覚えられたのです。 キリストは十字架の上で神のみわざを成し遂げたいという霊的な 渇きを満たすために、のどの渇きという肉体的な渇きを忘れ、また 人に「さげすまれ、人々からのけ者にされ」ることによって(イザ ヤ53章3節)、精神的な渇きを満たすことも犠牲にされたのです。 キリストにとって最も大切なことは、霊的な渇きを満たすことで あり、精神的な渇きや肉体的な渇きを満たすことは、第二、第三の ことでした。これは私たちにとっても同じではないでしょう。 三、私たちの渇き 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるた め、三種類の渇きは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 (1)肉体的な渇きが満たされるならば、精神的な渇きも満たされ、 さらに霊的な渇きも満たされたかのように錯覚してしまうのです。 (2)肉体的な渇きは、精神的な渇きを招き、それは霊的な渇きを も覚えさせるのです。 前者の典型的な例は、愚かな金持ちの農夫です(ルカ12章16~ 21節)。彼は、豊作のために肉体的な飢え渇きが満たされましたが、 それによって精神的な渇きや霊的な渇きも満たされたかのように錯 覚したのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な渇きが満たされることで す。後者のように肉体的な渇きや精神的な渇きが満たされないこと は、私たちに霊的な渇きを覚えさせ、それによって私たちは、神に 近づくことができるのです(詩篇119篇67、71節、伝道者7章2 ~4節、マタイ5章3~12節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.12.01 19:32:59
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