|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「成長する愛」 2019年6月23日
インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東 ⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2014年10月2日放映「思いの霊的な教え」 「成長する愛」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7~21節 ヨハネの手紙の著者ヨハネは、「イエスが愛された弟子」であり (ヨハネ21章20節)、「愛の使徒」と呼ばれ、折りあるごとに、 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう」と語ったと 言われています(7節)。そこで、「愛の成長段階」または「成長 する愛」について学んでみましょう。 一、愛されること――受動的な愛 私たちがこの世に生を受けてから最初に体験する愛は、母の愛で す。この愛は、一方的に受ける愛、また愛される愛ですが、人が育 ち、また成長していくためには、まずこの愛されるという「受動的 な愛」が必要です。 「愛されること」は、肉体の生育のみならず、人格の形成および 心の成長にとっても大切な基礎です。なぜなら人は、愛されること によってのみ、肉体的にも精神的にも健全に成長していくことがで きるからです。このことは、幼少の時だけでなく、人の一生におい ても全く同じであるということができます。 けれども、私たちを取り囲んでいる周囲の人たちの愛は、決して 正しくて聖い愛ではなく、過保護や溺愛をはじめ、利己的な愛や押 し付けの愛、またその反対の放任や冷酷、果ては汚れた愛など、間 違った愛に満ちているのではないでしょうか。 しかし、ここに正しくて聖い真の愛があります。それは、私たち を愛するあまり、そのひとり子イエス・キリストを人間の罪を贖っ て死に渡された神の愛です。もし私たちがこの神の愛を知らなかっ たならば、この罪に汚れた世にあって、どうして正しく聖く生きて いくことができるでしょうか。 二、愛すること――能動的な愛 次に私たちが経験する愛は、私たちのほうから相手を愛する「能 動的な愛」です。これには、両親への愛、友人への愛、異性への愛 などがあります。 この「愛すること」は、本能として、また「愛されること」に対 する応答として、人間が成長していくために不可欠なものです。も し私たちが「愛されること」ばかりを考えて、「愛すること」を知 らなかったならば、人間として最も大切なものを失っていることに なります。 けれども人間が抱く愛は、何と利己的で、不純なものでしょうか。 相手のことよりも、結局は、自分のことしか考えない間違った愛を 持つことが多いものです。 しかし、ここに真の愛があります。それは、「私たちは愛してい ます。神がまず私たちを愛してくださったからです」(19節)とい う神の愛に応答した愛です。この神の愛に応答して、神から与えら れる愛こそ、私たちから利己心と不純な心を取り除き、純粋で、汚 れのない、聖い心をもって人を愛するようにさせるものです。 三、互いに愛し合うこと――相互的な愛 最後に私たちが求めなければならない愛があります。それは、互 いに愛し合う「相互的な愛」です。愛とは、本来、互いに愛し合う ものであり、いわゆる「片思い」では成り立たないだけでなく、決 して満足することはできないでしょう。「互いに愛し合うこと」は、 愛の本質です。 しかし人間同志の愛は、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、 私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(第二コリント12章 15節)というように、裏切られたり、または反対に人を傷つけたり しているうちに、互いの愛を見失ってしまいやすいものです。 互いに愛し合うためには、どうすればよいのでしょうか。それは、 私たちの「愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊か にな」ることです(ピリピ1章9節)。私たちの愛は、神の愛の 「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つ ようにな」る(エペソ3章18節)ことによって、いよいよ豊かにな り、こうして神と私たちとの間の「相互的な愛」が深くなる時、私 たちは、愛を見失うことなく、互いに愛することができるようにな るのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.06.22 17:05:29
コメント(0) | コメントを書く |