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「罪を贖う主の十字架と復活」 2020年4月12日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東 ⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2017年7月25日放映「罪を贖う主の十字架と復活」 「罪を贖う主の十字架と復活」 甲斐愼一郎 第一コリント15章17節 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰 はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」 (17節)。 一、主の十字架の意味するもの 「キリストは……自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に 負われました」が(第一ペテロ2章24節)、それは、私たちの罪を 贖うためです。「贖い」という言葉の原語は、「身代金の支払いに より解放する」という意味です(ギリシャ語辞典)。 アダムの堕罪によって、「私は罪ある人間であり、売られて罪の 下にある者です」(ローマ7章14節)。言い換えれば「罪を行って いる者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。しかし神は、 御子を遣わし、十字架につけることによって罪の奴隷であった私た ちを贖ってくださいました、すなわち身代金の支払いにより私たち を罪の奴隷から解放し、私たちは新しい主人である神のものとされ ました。 このことをパウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られ たのです」(第一コリント6章20節)、「聖霊は、神がご自身の血 をもって買い取られた神の教会を牧させる」(使徒20章28節)と 記しています。ペテロは、「あなたがたが……贖い出されたのは… …キリストの、尊い血によったのです」(第一ペテロ1章18、19節)、 「自分たちを買い取ってくだった主」(第二ペテロ2章1節)と述 べています。 二、もし主が復活されず、十字架の死が身代わりの死であるなら、 それは冤罪です 聖歌の156番2節には「イェスの十字架の上に仰ぐ、身代わり となりし神の御子を、心は打たれて言葉もなく、その愛のゆえに、 ただひれ伏す」と賛美し「身代わり」という言葉が記されています。 しかし十字架の死について聖書は、「身代わり」という言葉を用 いず、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(第 一ペテロ2章24節)と記しています。 「身代わり」という言葉は、国語の辞書には「先生・主人・友人 ・仲間などに代わって、その人のしようとしたことをすること」と 記されています(三省堂、新明解国語辞典)。 確かに十字架の死は、主が私たちの罪をその身に負われ、私たち の罪のために打たれたので、聖歌の歌詞のように「身代わりの死」 であると解釈されたのでしょう。 しかし主の十字架の死が「身代わりの死」であるなら、法律的、 人道的に大きな問題があります。たとえば、ある人が殺人の罪を犯 した時、その人を心から愛している父や母、夫や妻または子どもが その人の身代わりとなって、自首し、死刑になったら、どうでしょ うか。確かにその人は、罪に問われず、死刑を免れますが、それで 良いのでしょうか。これは、罪を犯した人が逮捕されず、罪を犯し ていない人が逮捕されるという「冤罪」です。義なる神が冤罪によ って人を罪から救われるということなど決してされません。 三、主の復活は、十字架の死によって永遠の贖いが成し遂げられ た証しです 主は、「人の子が来たのも……多くの人のための、贖いの代価と して、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10章45節) と仰せられ、ヘブル人への手紙の記者は「ご自分の血によって、た だ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたので す」(ヘブル9章12節)と記し、ペテロは、「キリストが死者の中 からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて」 (第一ペテロ1章3節)と述べています。 主が十字架の死の後、3日目に復活されたのは、十字架の死が恐 ろしい「冤罪」をもたらす「身代わりの死」ではなく、身代金の支 払いによって私たちを罪の奴隷から解放し、私たちが新しい主人で ある神のものとされ、そして「贖いの代価として」神のいのちが与 えられ(マルコ10章45節)、「新しく生まれ」る(第一ペテロ1 章3節)という「永遠の贖い」が「成し遂げられた」(ヘブル9章 12節)ことを教える確かな証しなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
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Last updated
2020.04.12 11:32:37
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