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「聖なる神に近づく道」 2020年4月19日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2018年5月11日放映「神の謙遜と人の謙遜」 「聖なる神に近づく道」 甲斐慎一郎 レビ記1~10章 主は完成した会見の天幕にお住みになり、その天幕からモーセを 呼び寄せ、彼に告げて仰せられました。この時、主の仰せられたこ とが記されているのが「レビ記」です。ロバート・リーは、「レビ 記は、贖われた民のために書かれたものであって、どのようにすれ ば神に近づき、神を礼拝することができるかを示したものである」 と述べています。 一、聖なる神に近づく道――幕屋において祭司がいけにえをさ さげる(1~10章) エジプトにおいて奴隷であったイスラエル人は、過越の子羊の血 によって贖われましたが、彼らが聖い神に近づき、神を礼拝するた めには、次のような三つのことが必要です。 まず主は、モーセを通してイスラエルの民に、幕屋を造るように 命じられました。モーセと民は、主が命じられた通りに幕屋を建て ました(出エジプト25~40章)。 次に主は、ささげ物をささげるように仰せられました。これには 任意的なものと義務的なものがあります。前者は、「全焼のいけに え」と「穀物のささげ物」と「和解のいけにえ」です(レビ記1~ 3章)。後者には「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけに え」があり(同4、5章)、その血は祭壇に注がれました。なぜな ら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです (ヘブル9章22節)。 そして主は、アロンとその子らを祭司職に任命されました(レビ 記8章)。祭司は「罪のために、ささげ物といけにえとをささげる ため」、「神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命 を受けた」人です(ヘブル5章1節)。アロンは祭司の職務を忠実 に遂行しましたが(レビ記9章)、その子のナダブとアビフは、異 なった火を主の前にささげたので、焼き殺されました(同10章)。 これは、祭司職の神聖さを教えるためです。 二、聖なる神に近づく道――幕屋と大祭司といけにえであられ るキリスト このようにイスラエルの民が聖い神に近づき、神を礼拝するため には、幕屋において祭司がいけにえをささげることが必要でした。 キリストは、幕屋の垂れ幕とし私たちの罪のためにご自身を裂か れ、悪も汚れもない聖い大祭司となるとともに、傷のないご自身を永遠のいけにえとしてささげられました。これが地上におけるキリ ストの十字架です。 三、聖なる神に近づく道――天にある真の幕屋と大祭司といけ にえであられるキリスト 「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司 として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた 物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、や ぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、 まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同 9章11、12節)。 このようにして「私たちは、イエスの血によって、大胆にまこと の聖所にはいることができ」ます。なぜなら「イエスはご自分の肉 体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設 けてくださった」からです(同10章19、20節)。 「まことの聖所にはいる」というのは、天の御国にはいることで すが、それはまた私たちが聖なる神に近づき、神を礼拝することを 象徴的に表しています。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2020.04.18 20:44:17
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