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「集注の霊的な教え」 2020年7月26日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東 ⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2018年8月3日放映「微生物の存在とその驚くべき働き」 「集注の霊的な教え」 甲斐愼一郎 コリント人への手紙、第二、10章1~6節 「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆ る高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(文語訳、思い)をと りこにしてキリストに服従させ」(5節)。 パウロは、主の尊い血によって贖われ、罪から救われたキリスト 者は、「代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだ をもって、神の栄光を現しなさい」と勧めています(第一コリント 6章20節)。しかし、神の栄光を現すためには、私たちの心とすべ ての思いをとりこにしてキリストに服従させなければなりません。 「集注」ということばがあります。国語の辞書には、「注意力を 分散させず、ただ一つの事に集めること」と記されています。 それでこの「すべての思い(文語訳)をとりこにしてキリストに 服従させ」る(5節)ということを、私たちがキリストに心を集め 注ぐという意味における「心の集注」という観点から学んでみまし ょう。 一、散漫な心について まず神に集注することができない心は、散漫な心や分散する心で す。これを霊的に聖書のことばで表現すれば、「心定まらず、その 霊が神に忠実でない」(詩篇78篇8節)ということです。このよ うな定まらない心は、「よみのようにのどを広げ、死のように足る ことを知らない」(ハバクク2章5節)貪欲が、その原因ではない でしょうか。 このような定まらない心の人は、世の中においては、優柔不断や 意志薄弱で、付和雷同する弱い人間と見られていますが、聖書にお いては、そのような生易しいものではありません。それは、「心の 定まらない者たちを誘惑し」(第二ペテロ2章14節)とあるように 罪の誘惑を受け、また「心の定まらない人たちは、聖書……を曲解 し、自分自身に滅びを招いています」(同3章16節)とあるように、 まちがった教えや異端に誘われて、滅びに向かう者なのです。 二、二心について 次に神に集注することができない心は、二心です。ヤコブが「二 心の人たち。心を清くしなさい」(4章8節)と言っているように、 二心とは、真の神に従うか、バアル(偶像)に従うか「どっちつか ずによろめいている」(第一列王18章21節)不純な心です。 このような心は、西洋の諺に「二兎を追う者は一兎をも得ず」と あるように、無益なことであるだけでなく、キリストが「あなたが たは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」 (マタイ6章24節)と言われたように不可能なことです。 このような二心のある人は、「その歩む道のすべてに安定を欠」 き(ヤコブ1章8節)、また「何を食べようか、何を飲もうか…… 何を着ようか」(マタイ6章25節)と言って思い煩うだけでなく、 神を軽んじ、神を憎むこになるのです(同6章24節)。 三、集注する心について B・F・バックストンは、聖書には「一つの事」ということばが 四回記されていると述べています。 1.一つの欠乏――「あなたには欠けたことが一つあります」 (マルコ10章21節)。 2.一つの必要――「どうしても必要なことは……一つだけです」 (ルカ10章42節)。 3.一つの願望――「私は一つのことを主に願った」(詩篇27 篇4節)。 4.一つの目標――「私は……ただ、この一事に励んでいます」 (ピリピ3章13節)。 このようなことから神に集注する心とは、「神よわが心さだまれ り」(詩篇57篇7節、文語訳)とあるように最も大切な一つのこ とに心を定めることです。それは「神の国とその義とをまず第一に 求め」る(マタイ6章33節)ことであり、このように神に集注した 心にこそ、真の聖さと平安と力があるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
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Last updated
2020.07.25 22:09:37
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