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カテゴリ:マックあつこ著書
11月12日、 『Tamago―39歳の不妊治療』が単行本になります!
この場をお借りして「プロローグ」と「第1章」をご紹介させてください。
『Tamago―39歳の不妊治療』マックあつこ著
ミラー月子、39歳、元キャリアウーマン、現在はママ志望の妊娠待ち。
そんななか夫婦は不妊症の診断を受けた。
遂に妊娠!
6カップルに1組が不妊症だと言われる欧米で、
ユーモラスに、切なくもタフに、スピリチュアルに、 メルボルンからアラフォー妊活小説
*Kindle電子書籍でも発売中デス。 英語版は『Someday Baby: IVF at 40』(単行本) 『Someday, IVF at 39』(Kindle電子書籍) Ako Mak著。
[目次] プロローグ 二十九歳の誕生日(十年前、東京で) 第1部 BERKANA 新しい命 1 三十九歳の誕生日 2 月の贈り物 3 不妊症? 4 クレアのお告げ 5 不妊症ですが、それが何か 6 初めてのIVF 7 おめでた 8 卵子年齢
第2部 NAUTHIZ 束縛 1 コミットメント 2 プレ妊娠! 3 ドナー 4 ついに四十の声 5 神経症 6 まさかの大逆転 7 悪夢 8 受精卵の魂 9 新生児
第3部 URUZ 熱意 1 再出発 2 養子縁組の道 3 地蔵菩薩 4 胎児の囁き 5 癒し 6 最後の望み 7 夜明け エピローグ 二十六週間後 あとがき
[プロローグ]二十九歳の誕生日(十年前、東京で)
「妊娠しました!」と送られてきたメッセージに一瞬、唖然としてしまった。 なんだか肩透かしを食わされたような気がしてしまう。立ち位置さえ変えられないほど混み合った車内で、縄抜けさながら身体をくねらせ筋トレさながら力を振り絞り、やっと携帯電話を取り出したのだ。こんな早朝に入る連絡なら緊急事態に違いないと思った。田舎の祖母が倒れたとか、今朝の三社コンペの場所が急遽変更になったとか。それが、取れなかった電話の後を追うように送られてきたメッセージがこれなんだから。 妊娠。 そりゃあ、相手が不倫だとか、一夜のアバンチュールだったとか、本人来週ボンベイ支社に転勤が決まっているなぁんて事態なら、気が動転しちゃってこんな時間帯に電話しちゃうのもわかるけど、そんなニュアンス全くないし。そもそも差出人の朋子というのは数年前に寿退職を決め込んで、以来習い事に忙しいってタイプの、いわゆる優雅な専業主婦なわけで。申し訳程度に「お誕生日おめでとう!」なぁんて追伸されているのも、なんだかなぁ…って感じで。 だけど正直、女友達ご懐妊のニュースに複雑な思いも湧いてきた。そう、誕生日。昨日で私は二十九歳になったのだ。ということは、来年は三十歳になるわけで。仕事の方は転職も果たして思いのほか順調だし、焦る必要もないと頭ではわかっているのだけれど。結婚って言葉が年々重たぁくなっている。心の中は、もう二十九歳、まだ二十九歳…。 そう、会社を変わって仕事が忙しいっていうのに、昨夜一緒に誕生日を祝おうと言ってくれた雄一の誘いにのってしまったのも、二十九歳の誕生日だったから。そのうえ郊外に一戸建てを買ったという彼の言葉に悪酔いしてしまって、今朝一番で三社コンペがあるというのに、つい彼の家に泊まってしまった。おかげでこうしていつもなら決して乗らない、郊外から都心へ向かう朝の殺人的急行列車に揺られているというわけで。嘘っ、いやだ、どうしよう、昨日とスーツが同じじゃあないの! 大手通信会社に勤める鈴木雄一とは、転職のコネでも見つかるかもしれないと参加した卒業大学のOB会で知り合った。付き合い始めて三か月になるけれど、お互い忙しくてデートもまだ数えるほどしかしていない。出身は長野県で、大学では山岳部に所属していたとか言っていたっけ。そう、体育会系。いつのまにか人混みに押されて遥か向こうに見える雄一は、朝から疲れた乗客の中で頭一つ突き出して、清々しい様相で立っている。健康そうだし、真面目そうだし、頼りになりそうだし、優しいし、そこそこ面白いし、何よりも、独身。その横顔を見ながら思う。この人はいつか自分の夫になるんだろうか、と。 次の駅で、これ以上はネズミ一匹だって入る隙間はないだろうと思っていたのに、更に人が乗り込んできた。身動きが取れないどころか押し潰されそう。このぶんじゃあ新宿駅に着く頃には筋肉痛になっていそうだ。ゴツンと何か固いものが肩にぶつかった。なんとか首を捻れば、嘘でしょ、ベビーカー…? あろうことか、女性がベビーカーと赤ちゃんを抱えているんだ。どうしてこんなラッシュ時の急行電車に赤ちゃんを連れた女性なんかが乗っているんだろうか? せめても各駅停車の方なら少しは空いていそうなのに。 驚きのあまりついつい視線が行ってしまった。混んでいてよくは見えないけれど、どうやら片腕に赤ちゃん、もう一方の肩にはベビーカー、そのうえ巨大なショルダーバッグまでかけているようだった。自分と同年代か少し若いくらいだろうか。小柄ながらバランスを崩すことなく足を踏ん張って、ていうか、この混みようじゃあ倒れるほどの空間的余裕もないんだろうな。 赤ちゃんの方は、青い服を着ているからたぶん男の子なんだろうけど、なんとこの状況で眠っていた! ふくよかな頬を母親の肩に預け、安心しきったあどけない寝顔で、すやすやと。その光景は殺人的列車とはあまりにもかけ離れていて、そこだけ異空間にあるような、見ているこちらの方がなんだか眠たくなってくるような。通勤電車で吊革につかまって立ったまま眠っているサラリーマンを見かけることはあるけれど、この子も案外ラッシュ時の車内に慣れているのかもしれないな。そうすると彼女はワーキングマザーなのかな? 近所に託児所の空きがないという話は聞くけれど、会社近くの託児所にでも預けてゆくんだろうか。 電車が揺れて微妙に皆の立ち位置が変わったとき、紺色のジャケットを着たその女性の肩が赤ちゃんの涎でねっとりと汚れているのに気が付いた。あらら、お気の毒に、あれでコンペは自分の連チャンスーツよりもキツイだろうなぁと思ったとたん、ハッとした。 昨夜は、大丈夫だっただろうか? もちろんコンドームは使ったけど、万が一、漏れてでもいたら…? まさか、昨夜は危険日だったんじゃ…? 確か、妊娠しやすくなってしまう危ない日っていうのは生理と生理の間だっていうから…。あらっ、間って、前回の生理が始まった日と次回の生理予定日との間だったっけ? それとも前回の生理が終わった日との間で? ていうか、そもそも先月の生理っていつだった? ああ、もう忙しくて生理のことまでいちいち覚えてないし。いやだ、まさか・・・ 考えるほど不安になってきた。どうしよう…。やっと大手のコンサルタント会社に転職を果たしたばかりだというのに、妊娠なんかしている場合じゃないんだ。新卒でも女子学生の正社員採用は難しいと言われて久しい、就職氷河期も鍋底不況もいつまで続くのかっていうシビアな雇用情勢下で、周りからも絶対無理だと太鼓判押されながらも(?)遂に果たした転職である。しかも正社員採用で。これからクライアントも開拓して、大きなプロジェクトも任せてもらえるように全力を尽くそうと思っていた。それがこんなときに妊娠してしまったら…。 ふいに人の波が大きく動いた。窓の外を見やれば私鉄や地下鉄と接続する下北沢駅だった。プラットホームの人混みにさっきの女性が見えた。赤ちゃんを片手に抱いたまま、群衆のペースを乱すこともなく颯爽と歩いている。歩きながら器用にベビーカーを開く。なのに、立ち止まることもなく素早く赤ちゃんを座らせて、人の波に乗ったままホームを歩き続けてゆく。嘘でしょ、なんて超人的なの! 一連の優雅な動作に見惚れてしまった。 電車が親子を追い越したとき、彼女の頭が何か小さな帽子でも被っているかのようにツートンカラーであることに気がついた。オレンジブラウンに染めた髪の頭上の方だけがまあるく黒い。忙しくて、きっと染め直す暇もないんだろうな。 「お気の毒に…」思わず呟いてしまったとたん昨夜の記憶がまた蘇った。まさか、そんな…。彼女の後ろ姿がふっと未来の自分に重なった、ような気がした。 「何か言った、月子?」いつのまにか隣に立っていた雄一が顔を覗きこんでくる。 「ううん、別に」と曖昧に答えた自分の声が妙に乾いて響く。雄一に抱いていた思いが、一気に冷めてしまっていることに気がついた。ああ、もう…。 どうか絶対に妊娠なんかしていませんように。
1 三十九歳の誕生日
目の錯覚かと婦人体温計の文字盤をナイトスタンドの灯りに翳してみたけれど、やはり三十六度九分である。だけど予定では今日、生理になるはずじゃあなかった? 逸る心を抑え、基礎体温表をベッドサイドテーブルから引っ張り出し、今月の線グラフを辿ってみる。やはり、そうだ。昨日は月経周期の二十七日目で、いつもなら体温の下降する時期なのに高温期が続いて、今日また上昇したのだ。こんな時期に上がるってことが何を意味するか、基礎体温表をつけたことのある女性なら誰でも知っている。もしかして! 弾んだ心に、ぴしゃりと理性の声が呼びかけた。だから月子、お待ちなさい、人生それほど甘くはないと、もうわかっているでしょう。ぬか喜びする前に測り直した方がいいよ、と。 この半年間というもの、わたしの朝はデジタル体温計で明けていた。測定値を基礎体温表に記録しては今後の戦略を立てるんだ。直に排卵しそうだからロマンチックな、もしくはエロチックなDVDでも借りてセクシーなランジェリーでも着けようかとか、一気に(といっても一、二分なんだけど)下がってしまったから、二、三日中に生理がきてしまうだろうと身構えたりとか。わずかな数字の変動にもネット投資家さながら一喜一憂しつつ。思えば、クライアントの売上高や利益率の推移なんて数字に神経を擦り減らす日々に疲れ、仕事を辞めて東京からメルボルンへ移住したというのに、今や自分の基礎体温表に並ぶ地味ぃな数字に踊らされているんだから。人生って、皮肉。そのうえ経営戦略に比べて受胎のために打ち出せる策ときたら、なんと少ないことか。 ピピッと、測定完了のベル。やはり三十六度九分である。本来なら三日前には下降して今日あたりから生理になるはずが、前代未聞、上がっているんだ。ほら、見て。過去半年間の記録では、三十六度五分前後の低温期と三十六度八分前後の高温期の二層にくっきり分かれて、判で押したようにきっかりと二十八日周期で生理になっているでしょう。そう、たまには一日くらい遅れて希望を持たせてくれてもいいのにと何度願ったことだろう。だけど今、その小憎らしいほどパターン化された線グラフに乱れが見える! ねえ、見て、ルパート! 隣で眠る夫を揺さぶりかけてハッとした。いやだ、今日って…。 そうだった。できれば忘れたかったけど、今日はわたしの誕生日なのだった。とたんに興奮の波も引いてゆく。今日でわたしは三十九歳になったんだ。ということは、来年は四十歳になるわけで…。若ければいいなんて思っているわけではないのだけれど、婦人体温計を避妊目的ではなく、妊娠したくて使っている身には気の滅入る事態だ。 三十九歳か・・・。二十九歳にしろ、三十九歳にしろ、次世代に入る一歩手前の年齢というのは微妙だと思う。三十代に遣り残したこととか、四十代をいかに生きるか、なぁんてことを考えずにはおれないから。四十代の自分・・・。 四十歳って年齢は、この国でも微妙なのだと友だちのクレアが言っていた。「ミッドライフ・クライシス、中年の危機」って英単語まであるくらい。人生も半ば、折り返し地点に差し掛かり、ひぃひぃ登ってきた道を振り返れば、さして美しくもドラマチックでもなく、目の前には何てことない単調な道が続いていて、この先はゆっくり坂を下るだけ。重苦しい諦めの中、それでもまだなんとかなるかもしれないって希望の燃え滓が燻っているせいでトチ狂いかねない歳なのだ、と。 人生半ばの危機か。まあ、わたしなんて、三十代も後半で海外へ移住してしまったのだから、ある意味もう片足突っ込んでいると言えなくもないけれど。あくせく頑張ってきた経営コンサルタントの仕事を辞めて結婚してオーストラリアに移住して、そろそろ二年。何もかもが目新しかった日々も過ぎ、最近ふっと思うんだ。このまま、この国で…。 ああ、また! いけない、月子、何をまた後ろ向きに考えているの。大丈夫、四十歳まで後三百六十四日も残されているじゃあないの。努力次第で道は必ず開けるはずよ。 それに現代女性は昔と違って人生を七掛けで考えるべきだと何かで読んだ記憶がある。その頼もしい論理にのっとれば、三十九歳は二十七歳ってことになるわけで、ふむふむ、ならそんなに悪くはないじゃあない。確かに、記録写真なんかでは、過酷な労働や気候に晒されつづけた女性たちの顔には深い皺が刻まれ染みが浮き、三十代が四十代にも五十代にも見えるから、言えているんじゃあなかろうか。それに比べればわたしだって、独身時代は化粧品や衣類にお金をかけて、ひたすらオフィスにこもってUVを避けた甲斐あって、実年齢よりかなり若く見られるもの。この国じゃ二十代に間違えられることさえあるくらい。だいたいこんなことで喜ぶあたり、精神年齢が若い(未熟とも言うが)証拠だと思う。社会的見地からみても「人生七掛け説」は言えていそうだ。 「おめでとう、三十九歳」 ルパートの声に我に返った。夫はいつの間に目覚めたのか半身を起こし、わたしを胸に引き寄せる。「サーティナイン」とわざわざ明言したところに軽い憤りを覚えたけれど、彼の方はそんなことには思いもよらないらしく、目覚めの伸びをするように唇を重ねてくる。舌を入れようとしたのは妻の誕生日と週末という二大要素から特別な朝だと、オージー的思考プログラムが作動したせいだろう。けれどわたしの脳ミソでは直ちに「三十六度九分」の数字が黄色く点滅し始めるんだ。十日前の排卵期なら大いに歓迎したところだけど、この期に及んで冗談じゃあない。せっかく妊娠したかもしれないのに、不必要な衝撃を与えて流れでもしたら堪らないものね。 「ああ、いいよ、君は起きなくても。バースデーガールなんだから。誕生日の朝くらい朝食はぼくがベットまで運ぶから」と、ルパートはのんびりガウンを羽織りカーテンを開けた。 朝陽が寝室に降り注ぐ。五月の(といっても、ここメルボルンでは秋なのだけど)陽光がルパートの周りで飛び跳ねて、髪を明るく輝かせている。「いい天気だよ」と振り返った夫は長身で、なかなかハンサムだと思う。青い瞳には知性の輝きがあるし、薄い唇は笑うと片端が上がってお茶目になる。全身からゆったりした寛容さと品性を漂わせて、ほら、あんな味も素っ気もないTシャツを着ていても、それなりに様になってしまうのだから。 パジャマ代わりに着たそのTシャツは、着るものに無頓着なルパートらしく、格安量販店のKマートでセールの値引率に感動して買って以来、ビクトリア州に生息するカンガルーの数くらい洗濯機と乾燥機に突っ込んだせいで、今では木綿がシースルーなみに薄くなってしまったという代物である。ちなみに彼はその洗濯も自分でしてくれる。洗濯に限らず、オージーの国民性なのか個人的性分か、身の回りのことは当然のように自分でしてしまう。部屋が散らかっていれば文句も言わずに片付けて、カーペットが毛羽立っていれば掃除機をかけ、食べた後は食器を洗浄機に入れてゆく。料理を余暇のお愉しみの一つに数えているせいで、週末ともなれば手の込んだ品を作ってくれる。彼と結婚して良かったと思う。そりゃあ女性の憧れる理想的恋人ってタイプではないけれど、妻であるわたしよりも家庭的、いい夫だ。きっといい父親になってくれるんだろう。 「で、月子、卵は? 目玉焼き、スクランブルエッグ、スパニッシュオムレツ? パーティーは昼からだからそれまでゆっくり」 けれどパーティーと言われ、とたんにまた気が重たくなってしまった。 「パーティーって、またご両親の家に呼ばれてるの? 先週も行ったじゃない。今日は家でゆっくりしたいんだけど」 「え、でも…今日は君のバースデーパーティーなのに?」 「わたしのって…。いいよ、わたしなら別に。もうお誕生会って年でもないし」 「なんだよ、それ」と、うろたえた夫の声が突然きっぱりした口調に変わった。「いいや、スィーティ。ぼくの母が言っていたけれど、母なんか、君の誕生日を日本のご両親のぶんまで祝ってあげたいと、かなり前から準備をしてきたんだ」 わたしの誕生日を、あのお義母さんがねぇ…。にわかには信じ難いけど。 「とにかく、今日は双子のバースデーパーティーでもあるわけでしょう。わたしが行かなくても問題ないと思うんだけどな」 「いいや、スィーティ、母の話じゃ、姪っ子たちのパーティーはメリンダがマザーズグループの友達を呼んで別の日に計画しているそうだから。ぼくの母も言っていたけれど、今日は」 夫が説得モードに入ってしまったので、こちらの気持ちはますます引いてしまう。また、これだ。ルパートときたら実家の行事となるとテンパってしまうんだから。ちなみにこの「スィーティ」って呼びかけは、その単語の甘さとは裏腹に、彼が妻の機嫌をとって自分の思い通りにしようとするときに使う防衛用語である。夫にとって家族は何より重要だから。そのファミリーイベントをすっぽかすということは、職場で今年一番の大規模プロジェクトと謳われたコンペに遅刻した罪より、選挙の投票をうっかり忘れて罰金を課せられてしまったときよりも、はるかに重罪なんだ。どうでもいいけど、「ぼくの母が」ってもう十二回は言ったよね? ほぅら、説得にますます熱がこもってきた。ほとんどカルトの勧誘か、選挙民に清き一票を求める政治家なみの情熱と哀愁だな、これは。放っておけば何時間だってぐるぐると説得を続けそうだ。 「わかったわよ、心配しなくても行くわよ」 とたんに彼の顔が綻ぶ。卵はどうする?なんて鼻歌混じりに聞いてくる。 ルパート・ミラー。四歳年下の、オージー流に言うならば、マイパートナー。イギリス系の、メルボルン生まれのメルボルン育ち。離婚率四十パーセントとも五十パーセントともいわれるこの国で、紳士は死ぬまで妻の誕生日に温かな朝食をベッドへ運ぶ義務がある、と信じる父親と、家族の誕生日のお祝いは重役会議や政治闘争よりも優先されるべきだと公言して憚らない母親の息子。そんな両親の愛を全身全霊に浴びた結果、バースデーガールと、三十九歳になった妻に照れや躊躇いもなく呼びかけることのできる男性。辞書を引く気にもならないけど、「ガール」って「少女」って意味じゃあなかった、確か? でもそういうことは、たぶんここでは、ルパートに限った話じゃあない。この間だってカフェのウェイトレスがクレアとわたしに向かって「ガールズ、ご注文はお決まり?」とか聞いてくれたし(お世辞ではなくて自然な感じでね)。テレビの司会者もビールっ腹の一群をつかまえて「ボーイズ」なんて呼びかけていたし。この国では遠近両用眼鏡に杖の御婦人方だって「お嬢ちゃん」なんだろう。誕生日にしても、ここでは何歳になろうと絶対で、それを祝うのは基本的人権の一つだと、おそらく信じられているってこと。つまり文化や慣習の違いってわけだ。 それにしても、ほんといい天気だ。塗りたての壁のペンキが真っ青に輝いてみえるほどの秋晴れ。ペンキはこの色にして、やはり正解だったと思う。わたしたちは半年前に念願のマイホームを購入したものの、それで貯金を使い果たして、目下暇さえあれば夫婦で家の改築に励んでいる。なんとしても子どもが生まれる前に完成させたいから。ところで建築家のルパートの話では、この国は一世帯あたりの持ち家比率が世界一高いのだそうだけど。 ルパートお手製のバースデーブレックファストを待つ間に、シャワーを浴びて、〈RUNES〉で未来を占うことにした。ルーンというのは、古代ケルトやスカンジナビアから伝わったという占術で、ルーン文字というアルファベットに似たシンボルを彫った二十五個の石を使って占う。去年のクリスマスにクレアから贈られて遊び半分で始めたのが、最近ではかなり真剣、ほとんど癖になってきた。思えば昔は占いなんてバカにしていたものだった。そんなものに時間やエネルギーを費やす暇があるなら、さっさとリサーチにかかって、データを分析して戦略を立てて実行する方がよほど理にかなっている、と。学生時代もコンサルタント時代もそれで上手くいっていた。けれど懐妊ってテーマを前にどんな戦略が通用するというんだろうか? 考えあぐねた人生計画のシュミレーションが生理の出血でいともあっけなく流されるたび、神秘主義に傾いてゆく自分を感じてしまうな。 心を沈め、石の入った袋を握り締めた。クレアに言われたように神仏、宇宙、潜在意識に超意識なんて聖なるイメージに意識を集中させ質問を唱える。今日、三十九歳を迎えた自分にアドバイスをください、と。ひとしきり念じてから袋の中に右手を入れた。指先に当たるひんやりした石の感触が心地いい。大きく息を吐き一つを選ぶ。微弱な電流が流れたかのような、指先にピピッときた石を。 〈BERKANO〉だった。成長を表す石だ。解説本によれば、なになに、伝統的意味ではカバの木、豊饒信仰と関連、再生、新しい命。 新しい命! もしかして、これって、懐妊のお告げとか? それで今朝、基礎体温の値が微妙に上がっていたんだろうか? 妊娠!? そう思ったら、とたんに未来が薔薇色に見えてきてしまうんだから。
11月12日の日記『Tamagoー39歳の不妊治療』の「1 三十九歳の誕生日」後半へ続きます。 よろしければ応援クリックをどうぞよろしくお願いいたします(^^♪ にほんブログ村 [マックあつこの著書] 『Tamagoー39歳の不妊治療』 えっ、不妊症!? ミラー月子はたまご時計に急かされながらベイビーを夢見て先の見えない旅に出た。メルボルンからアラフォー妊活小説 『Tamagoー39歳の不妊治療』 Kindle電子書籍 『Tamago』 単行本 『インスタント・ニルヴァーナ』 もしもあなたの大切な人がカルトの罠に嵌ってしまったら? マインドコントロールの鎖は密かに繋がれてゆく。サスペンス長編3部作 『インスタント・ニルヴァーナ 上巻』 Kindle電子書籍 『インスタント・ニルヴァーナ 中巻』 Kindle電子書籍 『インスタント・ニルヴァーナ 下巻』 Kindle電子書籍 [Ako Mak 英語の著書] 『Someday, IVF at 39』 ‘Someday, IVF at 39’ ―poignant, humorous and mysterious― a cross-cultural odyssey for motherhood. 『Somedsay, IVF at 39』 英語版Kindle電子書籍 『Someday Baby: IVF at 40』単行本 [マックあつこのHP] マックあつこのHP Ako Mak HP お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.11.12 09:44:53
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